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1: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/16(月) 17:13:40
あまり語られることのない13代家定
14代家茂
を語ろう

2: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/16(月) 22:18:27
家定公は馬鹿殿様のような言われ方をされることがあったが、知能は人並みであった。
しかし、病弱だったためと趣味が料理づくりだったため、当時は誤解を招いたのである

家茂公は虫歯だらけだったそうだな。公武合併

3: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/17(火) 11:11:32
家茂はイケメンだったらしいね
写真残ってないのが残念

10: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/19(木) 09:38:30
>>3
家定も徳川宗家に残ってる肖像画を見る限り、
細面で目元の涼しいイケメンだ。いわゆる、しょうゆ顔。

5: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/17(火) 12:16:13
和宮の棺に入っていた写真?が現存していればなぁ

6: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/17(火) 19:38:25
本当に惜しいよね

7: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/17(火) 20:38:47
写真はないが、川村清雄の描いた油彩肖像画がかなり似てるって話だ。
1
 
8: 留守居格清水卿支配・跡部遠江守良弼 投稿日:2010/08/18(水) 01:47:01
天璋院と和宮のイジメの関係やら、薩摩が天璋院救い出しのために江戸城西丸に放火をしたとか、どこまで真実であったのだろうか

12: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/28(土) 21:15:55
家茂は大阪城の病床で慶喜と会話したらしい。何を話したのだろう。
『次はそなたじゃ』とかかな?
将軍みずから上方に出張るとは、家光以来230年ぶりのこと。
自身は江戸にいて名代を派遣することで収まらなかったのですかね。
家茂が若くして亡くなったのは、間違いなく大阪行きが原因だから。

13: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/28(土) 21:23:11
>>12
形式的なものだよね。
6代将軍も5代将軍吉宗の病床に呼ばれているし、
先代将軍から将軍位を譲るの言葉を受けることが必要だったのでは?

天皇家でも先代天皇が在位のまま死の床に就いた際には
東宮が先代天皇の病床に赴いて
直接譲位の意志を聞きとる習慣があった。

直接的には血縁関係もなく年齢が近いわけでもない
家茂と慶喜が世間話をしたとも思えないし。

14: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/28(土) 21:24:38
家茂は江戸城を出るときには元気だったし
途中で事故死したわけでも疲労で死んだわけでもない。
死因が大阪行のせいだとも思えないけど。
江戸城にいても病死していたでしょう。

15: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/28(土) 22:26:26
家茂にはものすごい数の虫歯があったというし、少なくとも摂生はしてなかったんだろうな。

21: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/30(月) 16:17:13
家茂はやっぱ長州は徹底的に叩けと思っていたのかなあ
人はよさそうだが

22: 日本@名無史さん 投稿日:2010/08/30(月) 20:02:14
19歳だか20歳の将軍にそんな確固とした政治理念は無いよ。
自分が超大企業の社長だとして考えてみなよ。
社長の発案で動くことはまずないでしょう。みんな部下が予定を決めてくる。
家茂の大阪入城だって、本人の発案だとは思えない。
『上様が動けばそれだけで騒ぎも収まる』くらいの家臣の認識でしょう。

ただ始末が悪いのは結局そのまま大阪で客死してしまった。
これで将軍権威が低下したのは事実。騒ぎが収まっていないのだからね。
咸豊帝が避難先の熱河で客死したのと同じこと。
幕閣にとって、若将軍の急逝だけは誤算でしょう。

しかし組織の終わりとはこんなものなのです。