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1: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/29(木) 09:56:43.54
学校では薩英戦争は薩摩のボロ負けだった
こちらの大砲は届かず一方的にやられたなどと教わった
それは本当なのか?

5: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/29(木) 12:32:04.39
意外にも薩摩は健闘してるんだよな。確かに砲は当時最新鋭のアームストロング砲を持つ英軍に
分かあるが、薩摩軍の砲撃で英東インド艦隊の提督を殺して旗艦も大破させてるんだよな。
むしろ馬関戦争(四国連合艦隊下関砲撃)のがあっけなかった。
壇之浦だの砲台片っ端からやられてあの高杉晋作や伊藤博文や山縣有朋ら後々
明治維新と明治新政府の礎となる者が若き頃の奇兵隊すら英米仏蘭軍に歯が立たなかった。

6: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/29(木) 14:30:59.99
>>5
>薩摩軍の砲撃で英東インド艦隊の提督を殺して旗艦も大破させてるんだよな。

違う
イギリス軍の大口径のアームストロング砲が勝手に破裂したwww
そして艦内で大量に死者が出た

ともあれイギリス軍はこの事故を受けて、せっかく開発して自慢していた後装ライフルのアームストロング砲を、その後10年間は
艦船に搭載する事が出来なかった
一方で、日本は佐賀藩がアームストロング砲を独自にコピーした
といっても、口径10cmクラスの小さいもので、しかも陸上運用だから破裂しても影響は少なかったが
そして戊辰戦争でこれが大活躍したのである

イギリスのアームストロング砲が破裂したこの事故のお陰で、イギリスはその後しばらく大規模な対外遠征、そして海戦を控えざるを得なくなった
この間に日本が明治維新、文明開化を成し遂げられたわけで、もしアームストロング砲が破裂しておらずイギリス軍が後装砲による高速装填&海戦を
する気満々だった場合、戊辰戦争がイギリスの介入とフランスの干渉で長期化し、英仏代理戦争となって
最後はイギリスとフランスに、日本が東西分裂する形で植民地化されていたのではないか?と危惧される

10: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/29(木) 17:27:57.72
>>6
薩英戦争と同じように馬関戦争での長州藩の砲台の占領は英軍ではなく
仏軍の陸戦部隊が主力だったのもうなずけるな。

29: 名無し三等兵 投稿日:2012/05/03(木) 11:39:39.35
>>6
佐賀藩のアームストロング後装施砲は口径75ミリ
冶金技術的に当時の佐賀藩がコピーするのは不可能で
南北戦争で不要になったものを購入したらしい

52: 名無し三等兵 投稿日:2012/10/12(金) 11:59:08.23
>>29
性能は不明だけど、
アームストロング砲、実際に作られてるよ。
工場の図も残ってるしね。
佐賀の人間なら、築地反射炉の事、知ってるよ。

54: 名無し三等兵 投稿日:2012/10/12(金) 12:22:10.64
>>29
すでに、オランダ経由で技術導入して、嘉永3(1850)年には、技術が確立してたよ。
佐賀藩の技術は、その後、明治期の工場の源流にもなってる。
特に関東芝浦あたりなんかは恩恵受けてたはずだけど。

7: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/29(木) 14:39:40.55
薩英戦争を客観的に考察すると
戦略目標を達成できたのは薩摩側のような。
英軍の方は上陸に失敗し撃退されたわけだし。

8: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/29(木) 14:42:42.94
昔、鹿児島出身の知人に聞いた話だと、鹿児島の学校では
薩摩が勝ったことになってるらしい。

11: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/29(木) 22:20:36.32
>>8
湾内の船を全部焼き討ちされ、城下を砲撃されて焼き払われ、
悲惨なやられっぷりだけど、そんなことは無かったことに。

英艦隊の損害も大きかった?
それはそうだ。危険を承知で沿岸砲台の射程距離内まで入り込んで
艦砲射撃を加えたのだから。さすが見敵必殺大英海軍である。

12: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/30(金) 00:44:52.13
薩摩が保有していた蒸気船3隻は全部拿捕、焼却処分されてるな

13: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/30(金) 05:44:53.00
鹿児島人だが、攘夷の一環で攻撃をしたが負けて攘夷が無理だと悟った程度の話で終わったぞ
ついでに現在でいうあそこへんでしたっていう感じだった

17: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/30(金) 12:25:36.06
明らかに土人相手の戦いと舐め過ぎたな

波が高くてイギリス軍の大砲が当たりにくい環境でもあった

18: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/30(金) 17:58:15.61
>>17
城下町焼かれたんだから
薩摩が負けたと言えば負けたんだが
その後の外交取引で有利な条件を…

19: 名無し三等兵 投稿日:2012/03/31(土) 00:49:24.62
イギリスの要求である生麦事件の犯人の処罰が行われなかったのでイギリスの負け

24: 名無し三等兵 投稿日:2012/04/03(火) 19:46:08.65
攘夷を捨てて英国と結ぶきっかけになったはずだが

50: 名無し三等兵 投稿日:2012/09/30(日) 14:59:51.28
意外と頑張ったな(ニヤニヤ)
と、イギリスが薩摩を日本の裏交易基地として
更に、将来に日本を英仏で分割統治する礎にしようとして
寛大な処置で納得してくれた

薩摩を潰すより、ここを反幕府勢力として強大にする方がイギリスの将来には得策だったのだ

51: 名無し三等兵 投稿日:2012/09/30(日) 19:41:18.39
つか、当時世界最大最強と言われていたイギリス海軍と戦争する勇気だけでも勝ちも同然てだと思う
実際イギリスも被害受けているしね

70: 名無し三等兵 投稿日:2012/12/09(日) 16:57:14.77
そもそも英軍の作戦目的は薩摩の藩有汽船の拿捕、鹿児島の海岸砲台の破壊。賠償金のGET。
英軍は生麦事件犯人の処罰以外の全作戦目的を達成している。勝った方が賠償金払うことなんかない。
実際、薩摩は要求どおりの6万300両の賠償金払って屈服している。

それに旗艦の艦長はあくまで一艦長であって艦隊の司令官ではない。
トラファルガーのネルソンではない。
これしきのことでイギリスが日本と戦うのはヤバイとか思うわけもない。

あと当時製鉄技術で圧倒的に先を行っていたのは佐賀藩でなく盛岡南部藩。
佐賀藩が反射炉で失敗しているときに、釜石で大島高任が高炉製鉄を成功させていた。
佐賀藩は地金を輸入して砲身を鋳造していた。

72: 名無し三等兵 投稿日:2012/12/15(土) 20:52:01.98
>>70
>大島高任

ちょっとwikiったらすげー人がいたもんだなあと

幕末って、蘭学で様々な知識は知ってたが実験施設がなくてウズウズしてた学者が
開国後に技術導入を図る各藩の予算使って一気に実践技術の試験を方々で始めた
時代だったって訳かw