1
1: 日本@名無史さん 投稿日:2008/07/15(火) 16:33:30
ということだよぅ

5: 日本@名無史さん 投稿日:2008/07/16(水) 10:38:09
政権から退いて、内乱さけることが慶喜の役目じゃないか。
江戸城明け渡し、恭順謹慎。ただのヘタレじゃない。
一応、立花種恭が大坂から帰った慶喜に堂々と帰還とすべきか、お忍びで帰還とするべきかの相談をしようとした時、慶喜は微笑を浮かべていて、相談したら大いに笑った、ってのがある。

37: 投稿日:2008/07/18(金) 19:12:52
まとめれば 慶喜は幕府という組織を必要としていなかっただけで
徳川家という看板は最大限利用しまた価値を高め 威厳と権威で明治での政治を、中心として暗躍していこうとしていたということ

50: 日本@名無史さん 投稿日:2008/07/19(土) 09:55:47
長期的に日本の国益を考えて云々という説があり、俺も傾倒したが
どうにも徳川慶喜を知れば知るほど単なるヘタレ(それなりに賢い、要はお前らに近い)としか思えなくなった。

同様の理由で徳川家光も。
日本の将来をどうこうではなく、
単に無知な外国嫌いだったからあそこまで徹底した強行外交が出来た(使いに来た欧州人を皆殺しにしたりした)。

本当に日本は運が良かった。
欧州列強の本気の怒りを買ったら、鎖国しようが何だろうが日本は雑多なアジア諸国の一つになってる。

「資源や奴隷を求めるなら他の東南アジアのほうが早いし、気候も温暖でいい。バナナおいしい。新大陸オモロイw」などの理由もあったのだろうが。
(我々には分からない感覚だが、白人は「温暖な気候」に並ならぬ楽園的価値を感じるらしい)

83: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/13(土) 14:01:40
政治家としては〇
将軍としては×

ヘタレだけど同情の余地はある。

85: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/18(木) 17:38:30
慶喜があと5年、将軍を放り出したりしなければ、時代劇も深みが増したことだろうな

86: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/18(木) 18:23:51
慶喜が大坂城で泰然自若として、どっしり構えていたら、朝敵にはならず、
土佐や越前の工作で新政府の首班として迎えられたよ。

徳川宗家を中心とする雄藩連合の形で、事実上、徳川政権を存続できた。

87: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/18(木) 18:51:14
慶喜は事ここに至るまでの行動があまりにも不定見過ぎるからな

徳川政権存続と言うなら小笠原長行の率兵上京の時がチャンスだったのではあるまいか

88: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/19(金) 12:05:32
大阪に本陣置くのが間違いだろ。遠くて戦況がわからない。
前線近い広島に布陣して、幕軍数十万で攻めれば、第二次も勝てた。
にしても、こういう時の為に各地に大藩として配置させておいた
親藩がなぜ活躍しない?
紀州・尾張の兵力だけで、長州・薩摩の維新軍を圧倒してるはず。

91: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/19(金) 14:33:18
>>88
尾張は薩長土肥に続く芸尾の一角
 
三条実美文書に越前の松平春嶽について
「王政復古一挙の際には土芸尾三藩と共に廟謨を賛成これあり」

93: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/19(金) 21:51:40
>>91
越前と土佐は徳川寄りだよ。
実際、小御所会議のときも、そのあとも慶喜を擁護して、
慶喜の復権寸前まで持ち込んだし。

尾張は藩内でも佐幕派と反幕派が抗争してたけど、
宗家の押し付け養子や幕府独裁に反発してたわけで、
公武合体路線に変わりはない。

芸州は微妙だが、中立的で状況次第で越前・土佐陣営に転ぶ。

117: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/28(日) 13:08:08
>>93
芸州藩はありえんね。
あれは第二次長州征伐のときに、すでに実質長州側だった。

90: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/19(金) 14:27:54
いかに徳川の代紋がいかに地に落ちていたとしても

大阪城から単身にげたらあかんやろ??? あれはあかんがな。

将軍が逃げたらあかん。

103: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/20(土) 21:12:04
大阪で篭城すれば勝てただろう。
紀州・尾張から幕軍集結させればよい。
そして藤井寺から紀州・尾張軍、
城からは慶喜軍で、維新軍挟撃。

104: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/21(日) 00:49:44
>>103
数があっても、兵器の質と戦術が違う。(極端に言えば、竹槍と機関銃)
但し、大阪城に籠城されると、多少は面倒だ。
尾張藩などでは藩祖自体が尊王で「王命によって催さるる事」という遺命があり、
朝廷の前では将軍家も尾張徳川家も同格というのが代々の立場、
鳥羽伏見での幕軍の敗報が伝わるや、名古屋ではすぐに、京都(朝廷側)に派兵しようとしたほど。
なので尾張が幕府側で戦うわけがなく、また、紀州藩のヘタレぶりは芸州口の戦闘で証明済み。
(敗走する味方の姿を、突撃してくる 長州兵と見間違えて、戦わずに敗走)
既に、藤堂や稲葉(淀城)なども裏切っているわけで、朝敵となった徳川宗家に付くハズがない。

209: 日本@名無史さん 投稿日:2009/07/06(月) 04:06:27
晩年何気に貴族議員になって明治政府に入閣してるとこもちゃっかりしてるね。

211: 日本@名無史さん 投稿日:2009/07/11(土) 10:19:39
ヘタレではない
時代に翻弄されたカワイソウな君主

212: 日本@名無史さん 投稿日:2009/07/23(木) 14:00:03
ヘタレと言うより、ゴルバチョフとかそのあたりのポジションじゃないの?
天皇を戴く統一政体樹立と、対外関係の安定の必然性を理解していたから
徳川家一個の政権維持の動機では動けなかった、そこに賢さも弱さもあったと…

213: 日本@名無史さん 投稿日:2009/07/23(木) 21:36:44
大河ドラマの見過ぎ
木戸に家康の再来とまで評価されたし

214: 日本@名無史さん 投稿日:2009/07/24(金) 00:33:22
いや同時代の人間でそれとは全然違う評価くだしてる人もいるわけだし
木戸がそういったからと言われてもねえ

215: 日本@名無史さん 投稿日:2009/09/24(木) 01:12:37
どっちかってーと秀忠の再来じゃねぇの
安定してる時代だったら普通の名君でしょ

216: 日本@名無史さん 投稿日:2009/09/24(木) 20:56:01
>>215
安定しとったら慶喜は将軍になれねーだろw
家定→家茂→亀之助…
地方でもガキでも将軍が勤まる情勢なら慶喜が出る幕はない

218: 日本@名無史さん 投稿日:2009/09/29(火) 13:04:05
慶喜は評価されるべき

318: 日本@名無史さん 投稿日:2010/06/08(火) 18:50:41
江戸城に舞い戻った慶喜が小栗や勝を参謀にして巻き返せば
勝てた
しかしその時、もう恭順を決意してたからな
ヘタレッ茶ーへタレだが~
いつまでも朝、幕の2極政治をしてたらまた今回の争いが起こる
折れの代でもう終わらせようと考えたなら
先の読める聡明な将軍であったといえるのではないか
臣下にしてみれば たまんねぇだろうが~

319: 日本@名無史さん 投稿日:2010/06/09(水) 15:24:17
しかしこうなる前に朝廷を圧倒して勝てる機会を何度もヘタレて逃してるからなあ
聡明だから負けを選んだと言うのはちょっと

321: 日本@名無史さん 投稿日:2010/06/14(月) 09:23:43
つーか負けるはずの無い戦いに2度も負けた後、結局巻き返したところで
まともに治まると思えないんだが、権威ガタ落ち。
江戸初期みたいな強権かざして幕威を取り戻したい保守派もいるし
開明派の幕臣によって徳川のままでも近代化できるって主張もどうかと
あそこで国譲りしてよかったよ

111: 日本@名無史さん 投稿日:2008/12/25(木) 22:44:40
それにしても、切腹寸前まで行っていた慶喜が、赦免後は、累進して
公爵。切腹と公爵は、紙一重だな。

中国なら、徳川宗家の墓は全部暴かれるw。