
1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2015/03/24(火) 02:57:26.60 et
西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月22日(1849年12月6日)- 昭和15年(1940年)11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒。
戊辰戦争において官軍の方面軍総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。
その後、伊藤の立憲政友会の総裁に就任した。明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。30代で大蔵大丞、42歳で日本郵船役員の岡本健三郎wwwww
岡本 健三郎(おかもと けんざぶろう、天保13年10月13日(1842年11月15日) - 明治18年(1885年)12月26日)は、幕末の土佐藩士、明治期の政治家・実業家。実名は養方。
土佐藩士・岡本亀七と寅の間に土佐郡一宮で生まれる。土佐藩下横目を務め、また坂本龍馬らと交流を持って国事にも奔走する。慶応3年(1867年)、龍馬とともに由利公正を訪ねて維新後の経済政策を聞き出している。
維新後は大阪府に勤め、土木頭、治部司、太政官権判事、大蔵大丞を歴任。明治5年(1872年)、博覧会用務でオーストリアへ派遣された。明治6年(1873年)、明治六年政変で板垣退助らとともに下野し、退助らとともに民選議院設立建白書を作成した。明治11年(1878年)、立志社の獄で、小銃の弾薬を購入を企てた事を理由に投獄され、出獄後は自由党に加入しつつ、実業家として活動を始め、明治18年(1885年)、日本郵船理事となっている。若手「ほげえええええええええええええええええええええ」
2~3年後
若手「ベンサムの民約論翻訳したやで~」
若手「憲法作るやで~」
若手「外交するやで~」
正直それは思う。当時の判事とか
明石元二郎みたいな仕事は無理やろうけど
明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864年9月1日) - 大正8年(1919年)10月26日)は明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。
日露戦争が開戦すると中立国スウェーデンに移り、以後この地を本拠として活動する。明石(当時の階級は大佐)は日露戦争中に、当時の国家予算は2億3,000万円程であった中、山縣有朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。この点について2013年に西部邁(評論家)は次のように述べた。「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。一兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」
高橋是清「やまてくれよ…やめてくれよ…」
実際は国の中枢や重要な体系って旧幕臣達が作ってるんやで
結局利用できる人材は利用した薩長の有能さや
なお100年持たずにアメリカの属国となった模様
独立はギリギリ保てたけど
軍部の暴走が始まってきな臭くなっていったのは東北閥が政権握ってからやしな
結局時流を読めずに明治維新で滅ぼされた側が調子こいたらああなるって好例やった
そういう点では徳川慶喜なんか絶対有能やったと思うけどな
世代交代の時に旧長州藩出身者は各地に散ってたから
解消されたというのが正しい
立憲政友会は長州閥が作った政党なのは間違いないんだし
陸軍も長州閥が根幹を作ったのは確かなんやし
「其説(長州藩)の趣意は、天子を尊候にても無之、外国人を打払候にても無之、
唯活計なき浮浪の輩、衣食を求候と、又一には野心を抱候諸大名、
上の御手を離れ度と申姦計の口実にいたし候迄の義にて、其証跡顕然。」
これもうわかんねえなあ…
弥之助なんだよなあ…
ある意味それが攘夷志士達やで
一般市民やないけど
開成は当時からガチってた模様
武士をあそこで徹底的に潰したからこそ栄えた。