2
1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2005/11/20(日) 02:06:45
幕末~明治維新期に活躍した公卿たちについて語るスレです。
三条実美、岩倉具視、中山忠能、大原重徳、正親町三条実愛、etc.

2: 電脳プリオン 投稿日:2005/11/20(日) 02:52:03
最初の二人しか知らない。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2005/11/26(土) 02:56:49
姉小路公知っいたよな。
勝海舟だかに意見を聞きにいったら、攘夷から転向したと思われて暗殺された人で良かったっけ?
剣術に優れた人だったらしいが・・・
1
姉小路 公知(あねがこうじ きんとも、天保10年12月5日1840年1月9日) - 文久3年5月20日1863年7月5日))は、江戸時代末期の公家。位階は正四位下、維新後に生前の功により正二位を追贈。父は姉小路公前、叔父に澤宣嘉がいる。養子に姉小路公義万里小路博房男、次代)。

天保10年12月25日(1840年1月9日)、公卿・姉小路公前の子息として生まれる。安政5年(1858年)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。文久2年(1862年)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美とともに江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。

のちに国事参政となり、三条とともに攘夷派の先鋒となったが、文久3年(1863年)に深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ自宅で卒去(朔平門外の変)。享年25。墓所は京都市上京区清浄華院 

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2005/12/03(土) 19:38:14
>>5 
2人の侍と、1人の下男を連れていたが、 
侍のうち、太刀持ちのほうが逃げちゃったんだよね。 

逃げた侍は、主君を見捨てた不忠者として、翌日、打ち首(切腹もさせてもらえなかった)。
 
7: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2005/11/29(火) 21:41:30
>>5
あれって史実では薩摩藩の田中新兵衛が暗殺したってされてるけど、
実際は濡れ衣らしいね。
じゃあ犯人は誰?ってはなしに成るけど

10: 九尾狐 ◆85KeWZMVkQ 投稿日:2005/12/01(木) 16:40:32
>>7
これはなんとも謎な事件で、当の新兵衛さんが毅然と潔白であると言い切った後、
証拠である現場に残された刀をみたときに、ギクリとしてその刀で腹を切ったそうだ。

これはもし本人であれば、わざわざ刀を現場に残すなどということはないだろうし、
事実、数日前にその刀は本人から紛失していたことが報告されている。
推測では、本人に近しい人物が犯人で、それをかばおうとしていたという説もある。

まったく謎である。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2005/12/02(金) 13:55:22
王政復古の時、当時の摂政や大臣たちは完全に蚊帳の外だったの?
下級公家や武士どもに好きなようにされて不愉快極まりなかっただろうな。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2005/12/18(日) 18:11:28
>>11
「皇政復古の大号令」では、征夷大将軍だけでなく、摂関制も廃止されています。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2005/12/27(火) 05:13:55
殺されたのは姉小路となんか毒殺されたひといなかかったけ?
幕末維新のごたごたで死んだのはこの2人だけでOK?
三条はラッキーだったな。苦労もしてるけど。
西園寺公望は岩倉に褒められるほど果断な人だったらしい。
爺さんのイメージしかないんだけど。

あとなんかしたひといたっけ?

22: 日本@名無史さん 投稿日:2006/01/09(月) 16:50:17
東久世通とみ(とみ の字が変換できないのでスマソ)は新政府の外交
で活躍してる。あと、函館の総督だった清水谷公考とか。

東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ、天保4年11月22日1834年1月1日) - 明治45年(1912年1月4日)は、日本江戸時代末期から明治時代にかけての公家政治家

七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。神奈川府知事開拓長官侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。華族伯爵)。号は竹亭、古帆軒。 

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/01/09(月) 21:55:28
柳原前光、徳大寺実則、愛宕通旭、外山光輔、あと西園寺公望も。

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/02/16(木) 20:09:33
明治時代、重要な地位についた公卿

三条実美 太政大臣、内大臣、臨時兼任首相
岩倉具視 右大臣
西園寺公望 内閣総理大臣、政友会総裁、元老
徳大寺実則 宮内卿、侍従長兼内大臣
東久世通禧 貴族院副議長、枢密院副議長
近衛篤麿 貴族院議長、学習院長

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/02/16(木) 23:11:27
鳥羽伏見の戦いのさい、公家たちは日和見を決め込もうとしたが、
まだたった十六歳の西園寺公望が、「これを私闘としては天下の大事去る」
徳川を朝敵とするべきだと主張した。
これを聞いた岩倉は大喜びで
「小僧、よく言った。これを私闘にしてたまるか」
と言い「西園寺さん、よく言った」と言い直した。
岩倉も普段は小僧などという言葉は使わなかったから
どれだけ興奮していたかわかる。
岩倉は死ぬ前、三条に誰が公家政治家であるあなたのあとを継ぐのかと訊かれ、
即座に「西園寺と近衛だ」と答えた。

西園寺 公望
幕末期、西園寺は若年でもあり、岩倉や三条実美のような幕末期における倒幕活動に強く参画していなかった。鳥羽・伏見の戦いの際、私戦として納めようという意見に対して猛反発し、岩倉に「小僧能く見た」と絶賛された。慶応3年12月9日(1868年)、おそらく岩倉の推挙によって、三職の1つ、参与の一人となった。

以後の戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀として各地を転戦する会津戦争では自ら鉄砲を撃ち、銃弾の飛び交う最前線にいたという 

84: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/20(日) 21:11:35
>>25
それって、
三条「あなたの後継者は私ですか?」
岩倉「いや、お前には無理だ」
…みたいな意味になるのかな?

今さら蒸し返してスミマセン…
なんか気になっちゃって。

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/21(月) 07:47:36
>>84
あ-・・・
でも岩倉は江戸薩摩藩邸焼き討ちの時に「コレ私闘だな」と叫んで日和見の先頭にいたぞw。
一度は日和ったが、徳川が武力を京都へ向けたので逆ギレしたというのが真相。

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/03/23(木) 20:41:59
四条隆謌・岩倉具視・三条實美・錦小路頼徳・沢宣嘉・壬生基修・東久世通禧。
この七人が幕末に八・一八の政変で長州に落ち延びた人達です。
世に七卿落ちといわれるクーデーター。
公爵 三条實美
   岩倉具視
侯爵 四条隆謌
伯爵 壬生基修 東久世通禧
子爵 錦小路頼徳
男爵 澤宣嘉
にそれぞれ維新後受爵されています。

七卿落ち(しちきょうおち)は、1863年(文久3年)の八月十八日の政変において、7人の公家京都から追放された事件。 

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/04/27(木) 16:58:12
>>29
岩倉ぢゃなくて三条西とかいう人だったのデワ?

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/04/28(金) 02:38:21
三条さん字うまいね
1
 
38: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/05/16(火) 20:45:50
>>36
有栖川宮タカ仁タル仁父子の方がうまいよ

タカ仁さんなんか五箇条の御誓文の正本を揮毫してるんだから

42: 徳川慶喜 投稿日:2006/05/16(火) 21:02:00
ちょーっと
孝明ちゃん殺ったのだれよ?

43: 有栖川宮熾仁東征大総督 投稿日:2006/05/16(火) 21:03:25
岩倉に聞いて


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