1
1: 日本@名無史さん 投稿日:2010/11/26(金) 22:14:58
明治に創設された日本陸・海軍の活躍でいまやすっかり忘れ去られている幕府軍。
フランス流に調練された陸軍や、蒸気船を揃えた海軍や、軍事アカデミーともいえる講武所や兵書の翻訳機関など、
割と優れていた設備を整えていた幕府軍を語るスレがあってもよいのではないだろうか?
ズボン式軍服を採用する上で、刀剣の外装から金具を外すという、脱伝統の努力も垣間見られなど、もっと評価すべき軍隊だと思う。

8: 日本@名無史さん 投稿日:2011/01/17(月) 22:38:44
旗本5000人 御家人20000人

これだけいれば大丈夫なはず
何であっさり負けたのか

9: 百戦100勝薩長軍 愛のエメラルド 投稿日:2011/01/28(金) 20:02:30
>>8徳川軍は銃に対する対応に遅れたのでは^数は多くても近代戦では烏合の衆。

鳥羽伏見の戦いで長州軍の小さなナポレオン、総指揮官(諸隊総駆け引き役)山田市之丞の採った戦術は
切り込みは断固不許可。物陰に隠れての徹底した銃による射撃。
「僅かな兵を損ねてどうする!。」
敵に銃撃で十分怯ませてから突貫、切り込むと云うもの。

山田 顕義(やまだ あきよし、天保15年10月9日(1844年11月18日) - 明治25年(1892年)11月11日)は、日本の江戸時代末期(幕末)の武士(長州藩士)、明治時代の政治家、陸軍軍人。諱は顕孝、のち顕義と改めた。幼名は市之允(いちのじょう)。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等伯爵。

日本の「小ナポレオン」といわれ、明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした。

また、山田自らが所長を務めた皇典講究所においては、日本法律学校(後の日本大学)、國學院(後の國學院大學)を創設しており、とりわけ日本大学は彼を学祖としている。

吉田松陰は山田顕義の師であり、その吉田松陰が扇面に綴った詩を山田顕義に贈っている。その内容は「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ 目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ」である。  

10: 百戦100勝薩長軍 愛のエメラルド 投稿日:2011/01/30(日) 08:36:29
山田市之丞は負けることも考えていた。いや勝てるとは夢にも思っていなかったらしい。
徳川軍はあまりの大群だからね^。
負けた場合は青大将の山田市之丞がまんだ小僧?の天皇を背中にオンブして
山陰道を長州に逃げる手はずになっていました。

徳川慶喜にとっては戦に負けたというより
淀藩や津藩の裏切りの方が響いたんじゃあないのかな^。

11: 日本@名無史さん 投稿日:2011/01/30(日) 12:29:38
将軍直参の旗元・御家人は確かに約25000いる
それらが軍備を整えれば80000の大軍勢になるだろうけど

そもそも腰抜けで使い物にならないのでいくら多くても意味無し

12: 日本@名無史さん 投稿日:2011/01/30(日) 18:52:36
>>11
旗本全体としては「腰抜け」だが、正式な軍令もないのに上京してくるくらいの連中は違うだろ。
戦意はかなり高かったといえる。
大阪城に退いた後も主戦論が大半だったわけだし。

やっぱり、意気と人数を活用できる指揮官がいなかったことだろうな。
それから錦旗を覆せるくらいの権威が不在だったこと。
それは徳川家当主である慶喜しかありえないが。

15: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/18(金) 13:57:53
それでも大鳥圭介なんかは自分のベストは尽くしたと思うが。

大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日1833年4月14日) - 明治44年(1911年6月15日)は、日本の西洋軍学者幕臣軍人官僚外交官正二位勲一等男爵家紋は鶴の丸。 
鳥羽・伏見の戦い後の江戸城における評定では小栗忠順水野忠徳榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張する。2月28日には歩兵奉行(将官級)に昇進。江戸開城と同日の4月11日、伝習隊を率いて江戸を脱走し、本所市川を経て、小山宇都宮今市藤原会津松平太郎土方歳三等と合流しつつ転戦し、母成峠の戦いで伝習隊は壊滅的な損害を受けたものの辛うじて全滅は免れ仙台に至る。仙台にて榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、箱館政権の陸軍奉行となる。箱館戦争では遅滞戦術を駆使し粘り強く戦ったものの、徐々に追い詰められ、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭で降伏したのち、東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄された。

伝習隊はシャスポー銃にヤタガン銃剣。高島流のようなナポレオン式一斉射撃ではなく、
猟兵式の散兵戦術。地形地物に遮蔽して伏せ撃ち。前進後退はラッパで統制。

庄内藩桑名藩南部藩は散兵戦術をマスターできたが、会津藩仙台藩米沢藩秋田藩はマスターできなかった。

伝習隊(でんしゅうたい)とは、江戸幕府陸軍(幕府歩兵)の精鋭部隊として編成した、フランス軍事顧問団の直接指導を受ける西洋式軍隊のこと。戊辰戦争では約1100名が旧幕府軍の主力として戦った。残りは長州藩傘下の帰正隊として新政府軍に参加して旧幕府軍と戦った。


16: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/19(土) 00:01:27
仙台藩の主力は戦力外だが、最後まで温存していた額兵隊は蝦夷で戦果
挙げてる

17: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/19(土) 09:37:37
函館を襲撃し、900の民家を焼いたんだよな。会津・仙台・新撰組は。
松前藩を襲ったのもこいつら。明治政府は、会津戦争前も函館戦争時も
寛大に処すからと交渉したのに、戦争やりたがったのはこいつら。

18: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/19(土) 21:02:24.14
米沢藩は稲富流砲術が盛んすぎてライフル銃の採用が遅れた。
だが千坂多聞の指揮する散兵隊4個小隊は全員七連発のスペンサー銃を装備していた。

しかし米沢藩がスペンサー銃250丁を受け取ったのは北越戦争が始まってからの5月15日。
しかも隊長の千坂多聞は優秀な指揮官ではなかった。

19: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/19(土) 21:06:37.73
久保田藩の有志隊2小隊90人と遊撃隊2小隊80人は吉川忠安からイギリス式訓練を受けていた。

これに対して盛岡藩は発機隊12小隊600人と鳥蛇隊12小隊600人が前装ライフル銃を装備していた。
訓練は高島流砲術免許皆伝の大島高任が担当した。

20: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/19(土) 21:11:59.27
高島流はゲベール銃時代と同じ密集突撃戦法だから、まともなライフル散兵隊には勝てないだろう。
銃が良くても密集突撃に固執すると、鳥羽・伏見の戦いにおける幕府歩兵のようなことになってしまう。

21: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/19(土) 22:07:26.05
「戊辰戦争書留」と言う本の中の、盛岡藩が雫石の農民を訓練したときの記述だと、

敵を撃つときは3、4人が一組になって草木に隠れて前進。指揮官の号令で一斉に立ち上がって同じ目標を射撃。
太鼓が鳴ったら一斉に前進。鉦がなったら一斉に退却。白兵戦のときは一人で戦わず互いに助け合って戦う。

盛岡藩ではそんな感じだったらしい。大島高任が実情に合わせて工夫したのかもしれない。
しかし雫石の農民はマタギも多く狩猟や狙撃にも慣れていた。マタギの与助は長崎振遠隊の斥候隊長を狙撃して射殺している。

33: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/24(木) 02:20:38.99
鳥羽伏見の場合、旧幕府軍は銃は最新式でも、戦術は薩長が数段優れていた。

旧幕府軍の戦術はナポレオン時代と同じ密集突撃だった。
この方式は銃にライフルが適用され、銃弾にミニエー式拡張弾が使用されるようになって、
有効射程距離が格段に伸びたため、突撃の最中に敵に弾丸を受けて壊滅する時代遅れのものと化していた。

新潟港における武器貿易は、そもそも新潟港に現れた商人がボッタクリ系なのさ。
明治新政府の開港延期通知に従った外国政府及び商人が大部分で、新潟港に現れたのはスネル兄弟と
もう一人だけだったのだから。

34: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/24(木) 07:44:22.89
幕末に来日した商人なんて南北戦争の在庫掃けにきた連中だろ?
どこかの記録にあったんじゃなかった?大村益次郎が銀の取引した詳細と
幕府側の取引詳細。

41: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/24(木) 23:25:55.06
>>34
大村益次郎が購入した銃器の価格
銃種 挺数 洋銀 洋銀/挺 両/挺 1両
長ミニエー 160 3,360 21 13.125  
短ミニエー 60 1,440 24 15.000  
ミニエー弾         50発
カラベイン 49 2,450 50 31.250  
大型拳銃     33 20.625  
小型拳銃     25 15.625  
マツノ書店刊行の資料でよければ

63: 日本@名無史さん 投稿日:2011/10/15(土) 14:23:37.13
大村のすごさは軍事の指揮官というだけでなく全体を見通せる数学的というか 
医者的というかそういう能力だな 
江戸に乗り込んだものの勝の狸ぶりに手詰まりになっていた局面を打開し 
終戦まで持って行った手腕は当時他に人はいなかっただろう 
第二次大戦のイギリスが戦略爆撃でドイツの産業経済を麻痺させるのに 
医学者を起用して計画をたてたのを思い出す 
その能力は維新後こそ軍事にかぎらず近代国家を築くのに発揮されただろうに残念だ

64: 日本@名無史さん 投稿日:2011/10/22(土) 21:32:14.03
>>63 
> 第二次大戦のイギリスが戦略爆撃でドイツの産業経済を麻痺させるのに 
> 医学者を起用して計画をたてたのを思い出す 


あー、そうだったな。
 
36: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/24(木) 14:08:00.78
鳥羽伏見で戦術が劣っていたのは新型銃さえ持っていない京都見廻組や新撰組、会津藩兵で、
幕府歩兵隊や伝習隊はフランス人現役将校から直接ラッパを使った散兵戦闘を教育されている。

新撰組や見廻組の密集突撃はナポレオンとは関係ないただの白兵攻撃。

37: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/24(木) 14:31:17.46
×幕府歩兵隊や伝習隊はフランス人現役将校から直接ラッパを使った散兵戦闘を教育されている。

実際は鳥羽・伏見の戦いにおける幕府歩兵隊の行動は散兵戦闘ではなく、密集突撃で犠牲だけを増やした。
フランス人軍事顧問は本国でも同様の過ちを犯し、普仏戦争でフランス軍大敗を引き起こした。

38: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/24(木) 20:04:41.73
そもそもナポレオン時代だってフランス軍は散開した軽歩兵と密集したラインインファントリーを使い分けている。
イギリス軍・プロイセン軍=散兵、フランス軍=密集と言うわけではない。

広いところでは散開させるし、狭いところを通過、突入するときには密集させる。
普仏戦争のフランス軍の敗因は戦術レベルより戦略レベルにあると思うけど・・。

39: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/24(木) 20:09:46.17
ところが、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍は戦域を広げる余地があったのに
鳥羽と伏見の二箇所のみ、、しかもその地域の道のいくつかのみに密集して突破を狙いました。

40: 日本@名無史さん 投稿日:2011/02/24(木) 20:27:24.29
大鳥が指揮した伝習隊や歩兵隊は宇都宮や日光ではバッチリ散兵戦闘できてるから、見廻り組や新撰組、会津藩兵が余計な口だしして足ひっぱったんじゃなかろうか?

会津藩兵は白河でも正面突撃してしてないから会津の家老クラスが散兵戦闘を全然理解してなかったのは事実。

45: 日本@名無史さん 投稿日:2011/05/12(木) 21:48:12.99
鳥羽伏見に来た旧幕軍って軍隊じゃなくて、有志一同なのよね。
だからこそ、攻撃されたらどうするかとか、突破に成功したらどうやって戦果を拡大するか、
とか全然決まってないし、誰が決めるかすら決めてないからその場で判断もできない。
有力な部隊があってもそれをどこに送り込むべきか判断する人がいないし、有利に戦闘を
進めてる部隊があっても、それを全体にどう活かすべきかわからない。

一方、薩長軍は前線指揮官に有能なのがそろって、部隊を有効に活用していた以上に
京に西郷どんがどっかりと構えて、全体の指揮をとってる。
なんつーか、鳥羽伏見以降の薩長軍の前線指揮官って日清・日露で大活躍した人が
揃ってるんだよね。その人達の上に圧倒的なカリスマで西郷。
同時代のどこの軍隊が相手でも負けないと思う。

47: 日本@名無史さん 投稿日:2011/05/16(月) 11:35:25.64
>鳥羽伏見に来た旧幕軍って軍隊じゃなくて、有志一同なのよね。
それは封建時代軍制のなごり。

基本的に藩単位での組織であり、薩摩や長州はそれぞれの藩として統率されていた。

確かに幕府直轄軍の指揮命令系統は問題であったが、幕府は全体組織よりも部隊建設に注力していた。

49: 日本@名無史さん 投稿日:2011/07/06(水) 12:06:16.63
幕末の頃って、どうしてピストルが普及しなかったのかね。
西部劇みたいに、腰からピストルぶる下げて、バンバンやってたら、
幕末の事件も随分ちがってたでしょうに。

50: 日本@名無史さん 投稿日:2011/07/06(水) 20:36:18.29
桜田門外の変の水戸浪士はピストル装備だし、それなりに出回ってたはずなのよね。
当局の取り締まりが厳しかったのかな?
ただ、ピストルって殺傷距離が短いし、白兵戦で刀より圧倒的に強いとは言い切れなかったりするよ。

51: 日本@名無史さん 投稿日:2011/07/18(月) 08:14:13.91
高かったんだろ、裕福な奴らは持ってたし

72: 日本@名無史さん 投稿日:2012/03/22(木) 14:46:54.24
幕府軍の評価が低いのは半分は長州の洗脳によるものが大きいと思う。
徳川慶喜がドキュンならば長州と全面戦争し壊滅出来るくらいの軍事力はあったろう
しかし教養があり頭もいいので時流に逆らった無理はせず、上手に負けてやったのだよね

73: 日本@名無史さん 投稿日:2012/03/22(木) 17:51:36.19
>>72
長州征伐でのあの体たらくでもか?

74: 日本@名無史さん 投稿日:2012/03/22(木) 17:56:42.18
長州征伐は本格化する前に慶喜が身を引いた。
全面戦争に発展すれば長州も滅んだが日本も滅び徳川家も後世に悪名を残しただろう
現代ではドキュン長州よりも勝ちを譲った慶喜が評価されている

75: 日本@名無史さん 投稿日:2012/03/22(木) 18:05:00.83
>>74
はぁ!?
尊皇派の水戸藩だから関東人の贔屓の引き倒しだろw
徳川慶喜の行為は従った東北諸藩にとっては裏切り行為に近い。

76: 日本@名無史さん 投稿日:2012/03/24(土) 06:46:52.32
>>74
乱世になれば、賢いやつではなく、パワフルなドキュンが勝つのだよ。

115: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/06(土) 15:36:26.56
>>74
どっちみち東北はろくな目に遭わんのだよ。
久保田藩を見よ。

117: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/09(火) 09:24:22.20
>>115
実は秋田藩の賞典禄2万石は佐賀藩(言わずと知れた)や岡山藩(鳥羽伏見前からの勤皇派)や
彦根藩(鳥羽伏見で真っ先に新政府側についた)とかと同格
それよりも、戊辰では思いっきり日和ったのに箱館で本気だしてちゃっかり1万石貰ってる弘前藩の要領のよさに脱帽する

95: 日本@名無史さん
鳥羽伏見は戦闘態勢にさえなっていれば、指揮官がボンクラでも負けようがない。

部隊は5群に分けられていたが、それは京都での目的地点単位で戦闘ではなく京都への移動隊形。

110: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/06(土) 11:42:34.08
幕府軍は装備で負けたというより、指揮官の質で負けたという感じ。
竹中重固とか、ヤバスギ。

111: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/06(土) 12:16:19.25
>>110
むしろ指揮官は優秀。
ダメなのは下士官不足な点。
更に指揮より士気不足で、強度防衛とか勝てば出世できるとかのシステムがないのが幕府軍の問題。
日雇いの元人足が参勤交代の廃止などで求人不足になって、料欲しさに組織に集まっているだけだから。

112: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/06(土) 12:42:53.39
そもそも 大政奉還後で 徳川家のメンバーの大半が新政府寄りって時点で 正規軍と言えたのかな

旧幕府軍

113: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/06(土) 14:22:57.97
優秀な指揮官とかいたっけ?
官軍で活躍した指揮官は、そのまま日清日露と活躍してるから、目立たないな。

114: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/06(土) 15:31:20.79
>>113
勝ってなきゃ優秀でない?
将軍じゃあるまいし、中級指揮官にそんな評価ねえだろ?

121: loser 投稿日:2014/09/14(日) 18:21:03.38
幕府軍の装備はおしなべて旧式だったのでは・・・
ゲベール銃には照星もついていなかったそうです。
ガトリング砲を数門持っていても、蟷螂之斧かと・・・

123: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/15(月) 09:40:28.27
>>121
どう考えても幕府の装備は新しいのでは?
そりゃ中には古いのもあったかもしれないが。

127: loser 投稿日:2014/09/15(月) 17:38:08.82
>>123 
幕府の装備は近代化していたんですか・・・ 
戊辰戦争や宮古湾海戦での敗北のイメージが根強く残っていますから。 
当時は兵器がすごいスピードで進歩しており、接舷捕獲などまず無理 
だったでしょう。ストーンウォール(甲鉄)にガトリング砲が装備 
されていなくてもです。
 
124: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/15(月) 12:37:13.55
旧幕府歩兵隊の装備は薩長と同等かそれ以上でしょ(少なくともミニエー、もしかしたらスナイドル)
列藩同盟側でも最終的な軍制改革行った年は長岡藩が慶応元年で早く、庄内藩と米沢藩が慶応3年ぐらいでギリギリセーフ
始動が遅すぎたのは仙台・会津で、会津藩は何とか格好だけ付けて部隊ぶっこんだけど、仙台藩は完全に遅刻で額兵隊の訓練中に終戦
発注した銃を新潟港で官軍に押収されてたり色々アカン
官軍側だけど、秋田久保田藩も多分間に合ってない。椿台の戦いの頃に新式銃がやっと届いて善戦できたらしい
あと紀州藩なんかも遅れてたが、支藩の紀伊新宮藩だけは早々に西洋化してたっぽい
第2次長州征伐で、同じ紀州藩軍なのに石州口と芸州口で戦いぶりに雲泥の差があるのは多分そのせい

125: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/15(月) 12:41:53.04
>>124
芸州は正面からガチの勝負だったから、数の利が生きた、
石州は陣地にこもって様子見してたら奇襲食らってぐちゃぐちゃにされて
訳が分からなくなった、ってのもあるけどね。

126: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/15(月) 13:25:37.05
>>125
というか、石州口は先鋒が機能せずにいきなり後方部隊が襲われているし。

136: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/18(木) 16:47:03.01
いやいや、幕府歩兵隊はどこでも前線で頑張って戦ってたし
伏見奉行所から撤退した直後は、指揮する奴が逃げたんで反撃や防御をするでもなく中洲で一晩過ごしたりしたけど
会津も千本松辺りの土手道の葦原に槍兵を伏せて長州藩の中隊長を討ち取る金星挙げたし
伏兵してるってバレた後は対応されて大損害出したけど
桑名も会津とぶっこみで無理矢理近接戦闘に持ち込んで富ノ森では官軍を後退させたし
予備兵力出して貰えなくて録に追撃もできずに引き返したけど
他の連中は何してたのか知らん

139: 日本@名無史さん 投稿日:2014/09/19(金) 08:04:23.53
>>136
それを指揮官がクズで戦争ができない状態というんだが。
前線が頑張ってるのに、指示が来ない、援軍が来ない。


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