1
1: 日本@名無史さん
水戸は歴史的に必要だったのでしょうか。
10: 日本@名無史さん
水戸がなければ軍国日本もなかった

18: あう
水戸学がなければ維新は失敗してだでしょう。幕末薩長ばかりスポットあびてますが天下の魁は水戸゜

20: 日本@名無史さん
>>18
どうして水戸学がなければ維新が失敗するの?
関係ないんじゃない

30: 日本@名無史さん
>>20
水戸学から成る尊王攘夷が当時の社会通念。
この思想が当時は絶対であり、幕府もこれを蔑ろに出来ず開国と攘夷の板挟みで苦しんだ
外国には開国。朝廷には攘夷。
この矛盾した行為が反幕攘夷運動を加熱させ倒幕へと発展する

22: 女子中学生
あーだ、こーだと、言う前に少しは水戸学を読んで見ては、いかがですか。 ついでに日本書記や古事記や紀記伝記もね。

46: 日本@名無史さん
>>22 東湖さんが圧死しなければ歴史は変わってたかな……

52: 日本@名無史さん
>>46
変わった。
水戸学の正当が分裂したからね。

42: 日本@名無史さん
尊皇攘夷を掲げたが、徳川のお膝元という所で幕末
の極末期からは表舞台から消えたな。

44: 日本@名無史さん
>>42
桜田門外の変、坂下門外の変を起こし、有為の人材を失い、
天狗党(尊攘激派、倒幕ではない、武田耕雲斎・藤田小四郎ら)と諸生党(弘道館諸生+保守門閥・親幕派 市川三左衛門ら)の
殺し合いで殆ど明治に人材を残せなかったからでは。

50: 日本@名無史さん
水戸は尾張・紀伊などに比べると御三家と言われながら、
「格下」に見られたからな。その不満が尊皇攘夷思想を
生み、徳川斉昭のような屈折した野心家を生む原因の一端
となったと言えなくもない。

62: 日本@名無史さん
>>50
斉昭は一橋慶喜をどうしても将軍にしたかった。
光圀から斉昭までの藩主の時代、尊皇は盛り上がらなかったのに
いきなり盛り上がったのは、将軍継嗣問題と関係あるのかな?

68: 日本@名無史さん
>>62
幕末は尊王壤夷思想から盛り上がった訳で、尊王って単体の思想から盛り上がった訳ではない

56: 日本@名無史さん
>>50
そういう面もあるかもね。
でもそもそも勤王論をとなえたのは尾張義直。光圀はこの伯父を尊敬し影響をうけた。
尾張義直の勤王論は 幕府への対抗意識から生まれたもの。
発信地は尾張。

92: 日本@名無史さん
>>56
尾張の勤王は一代限りじゃないか 水戸は連綿とつづいたから偉大

100: 日本@名無史さん
>>92
はあ?水戸の勤王が連綿と続いた?
光圀の死没後はあきらかに断絶してんだろ。
つーか、光圀だって勤王じゃないし。
幕府に圧迫され続ける朝廷に対してなにかしたか?
大日本史編纂事業の継続と勤王は別物だ。

58: 日本@名無史さん
納豆との関係が、謎だ!

60: 日本@名無史さん
>>58
水戸では納豆は 八幡太郎義家が東北遠征(前九年の役、後三年の役)のときに
もっていった煮豆が発酵し(腐り?)もったいないので食したところ美味だったという
伝説があります。尊攘とは関係ないですが。

70:日本@名無史さん
62ですが
言いたかったのは、後期水戸学の発生要因に継嗣問題も関連しているのかな?ということです。

72: 日本@名無史さん
>>70
正志斎が新論を著したのは文政8年
将軍継嗣問題よりはるかに前で 直接関係はない 

80: 日本@名無史さん
時代が混乱期を迎えようとしているときこそ、水戸だろ!

混乱期の初めには過激なまでの思い込みと行動力が必要だ。
天誅の嵐!
そして、気が付くと時代に取り残されてゆく。

嗚呼

90: 日本@名無史さん
戦後生まれの水戸っぽは学校で尊王攘夷も水戸学もましてや血盟団も詳しく教わっていない。
水戸の思想自体が戦後タブー視されたからかな。
最近再びスポットを浴びつつあるが、まだまだ私を含め勉強不足。身に沁みていない。

108: 日本@名無史さん
明治33年 光圀に正一位が贈位されたとき明治帝は 勤皇の倡首にして復古の指南たり と勅に述べられているでしょう
明治帝ご自身が光圀を勤皇と認められている 大日本史編纂自体が勤皇の倡首

110: 日本@名無史さん
>>108
それは後世、明治になってからの評価であって、
光圀が生きた時代の証拠になってない。

大日本史って、斉昭や幽谷らが政治的な立場を優位に
するために積極的に利用しただけでしょ。
(尊皇攘夷のスローガンに見合うよう、都合良く改竄
したとも言われているけど、そこまで内容に踏み込ん
だことはないので断言はしない)
水戸藩の勤王は光圀以来の伝統なんだぞって、よそに
宣伝するために。

具体的な証拠が欲しいんですけど。
そもそも大日本史編纂の目的は、後世に名を残すため、
自分のためだと光圀本人が書簡で語ってるんですけど。
どこが勤王?
なにか「光圀=勤王」のイメージだけで語ってない?

118: 日本@名無史さん
>>110
仰る通りかもわかりませんね。 
水戸学の発生が、名を世に立てん目的であったのかも知れませんね。 
政治目的はやはり将軍継嗣問題ですかね。 
 
 

114: 日本@名無史さん
>>110
イメージが大切なんでしょ。
薩長が官軍なんてイメージそのもの。天皇は玉、天皇は傀儡。

134: 日本@名無史さん
水戸っぽって俗な言葉で言えば、武士は食わねど高楊枝みたいなところがあるから。
暮らし向きのことより、プライドを大事にするからね。

138: 日本@名無史さん
>>67
それが自慢らしい。

142: 日本@名無史さん
幕末においてテロ支援藩として活躍したことが最重要

144: 日本@名無史さん
>>142
支援するどころか水戸藩は内紛に明け暮れてるじゃん。
しかも水戸に限らず、あちこちの藩主の後継ぎとして迎えられた
水戸斉昭の子供たちや兄弟姉妹、親族の諸藩だけでなく、
宮中の公家や皇族にまで巻き込んであっちこっちであぼーんしまくり。

202: 日本@名無史さん
江戸の上屋敷は小石川、つまり江戸城外堀の外側にあったわけですが、
なぜ本丸近くではないのですか? 上杉ごとき外様でも桜田門の前に
上屋敷、譜代の両酒井家は大手町に上屋敷。尾張や紀伊は紀尾井坂に
上屋敷。

218: 日本@名無史さん
>>101
常勤だったのでいつも近くに居られるとうざかったんじゃないか?

222: 日本@名無史さん
近くにいるとウザイやつが、なぜ定府である必要があるの?
幕府が参勤交代を命じれば済むこと。

230: 日本@名無史さん
>>222
遠くにいるとヤバイから。

234: 日本@名無史さん
水戸藩邸が城外に押し出されたのは尾張・紀伊より格下だったから。
水戸が常府なのは藩が可哀相になるくらい貧乏で参勤交代を免除したから。
じゃないの?
あまり深く考えたことは無かったな。

238: 日本@名無史さん
定府だから出費がかさんだ面もあり、参勤交代免除が特典とは言いきれない。

240: 日本@名無史さん
その通り、定府で逆に藩財政が逼迫した。

242: 日本@名無史さん
しかも比較的江戸に近いから
参勤交代がどれほどの負担になったか
わからん。

244: 日本@名無史さん
江戸と水戸は健脚なら1泊2日
ゆっくり行っても2泊3日
2泊ぐらいなら確かに大した負担じゃないよね

246: 日本@名無史さん
江戸は物価が高い。
付き合いも多い。
よって定府は貧乏に拍車をかける。

248: 日本@名無史さん
藤田東湖は『回天詩史』で、江戸定府について
「風俗は軽薄化し、江戸と水戸との人々の気風がくいちがって、気持ちが通じあわなくなった。
文書をやりとりしても真意を疑うようになった」と書いている。
経済的な難点以外にも問題があったみたいですね。

468: 日本@名無史さん 投稿日:2005/06/07(火) 18:37:40
はじめまして!話が変わりますが、水戸天狗党ってなんですか?教えてください

472: 日本@名無史さん 投稿日:2005/06/07(火) 18:53:55
>>234
簡単に云うと水戸藩の尊攘激派閥。対立したのが諸生党(尊攘鎮派+門閥派)
筑波山で挙兵~中略~越前で投降
鼻高々でえばっていた(茨城弁)ことから命名。

詳しくは調べてみてください

514: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/06(火) 19:52:58
何故か長州の伊藤博文や品川弥次郎は天狗党など水戸尊攘派の追贈に熱心で、
伊藤は自ら天狗党の追悼の碑文の筆を執っている。

524: 日本@名無史さん 投稿日:2005/10/09(日) 22:02:55
山田光顕も水戸に対しては維新後、熱心に肩入れしてました。常陽記念館って
彼の方の力で建てたんだよね?

526: 日本@名無史さん 投稿日:2005/10/09(日) 22:31:40
山田?田中じゃない?
今は名前変わって幕末と明治の博物館
茨城大洗にある…明治天皇の銅像もある…

542: 日本@名無史さん 投稿日:2005/10/30(日) 18:05:09
水戸最強で異論はないね?

544: 日本@名無史さん 投稿日:2005/10/30(日) 18:41:33
水戸狂暴でなら異論は無いよ。


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