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1: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 11:21:00.12
坂本龍馬の子孫が全史料を寄託・寄贈へ 高知市の記念館に
引用元:高知新聞 2015年06月30日08時08分
http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=340174&nwIW=1&nwVt=knd

札幌市に住む坂本龍馬の血縁の子孫が、代々伝わる書画や写真アルバムなどの史料を、高知市浦戸の高知県立坂本龍馬記念館に近く寄託・寄贈することになった。
龍馬ら維新の志士を描いた公文菊僊(きくせん)の日本画、西郷隆盛や勝海舟の直筆の書のほか、明治中期から開拓農民として北海道に移った坂本家の足跡を刻む写真や手紙など多彩な内容。
今年中に一部が公開される予定だ。

・「末永く引き継いで」 高齢で管理難しく決断

維新の志士にまつわる書画など坂本家に残る全史料が、高知県立坂本龍馬記念館(高知市浦戸)に寄託・寄贈されることになった。
決めたのは、龍馬のおい、坂本直寛の孫で、山岳画家としても知られる直行さん(1906~82年)の妻、ツルさん(97)と長男、登さん(78)ら6人の子。
ツルさんは長年、坂本家に伝わる史料類を札幌市内の自宅で管理していたが、7年ほど前から高齢者施設に移り、家は無人に。
子どもも含めて今後の管理を話し合い、「龍馬が生まれた高知の龍馬記念館に預けるのが一番いい」と結論付けたという。
(引用ここまで 全文は引用元参照)

【写真】前田由紀枝課長=奥=が坂本家の子孫=手前=らと西郷隆盛や勝海舟の直筆書などを確認。
高知へ運ぶ作業が行われた(札幌市西区の坂本ツルさんの自宅)=(写真左)、
1

龍馬の立像などを描いた公文菊僊(きくせん)の巻物(札幌市西区の坂本ツルさんの自宅)=(写真中央)、
2

寄託・寄贈史料を集めた部屋には直行さんの遺影や油絵などが飾られていた=(写真右)
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▽関連リンク
高知県立坂本龍馬記念館
http://www.ryoma-kinenkan.jp/

9: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 11:37:26.59 ID:l5TIC6Co.ne
全国で展示会やればかなり儲け続けられるだろ。

11: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 11:47:10.73 ID:ZIgHnOY4.ne
なぜか函館にも龍馬記念館あるんだよな


14: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 11:52:44.17 ID:9P2v+AJH.ne
てか大事をなした人物ほど恨みをかって死んでるよな

高杉晋作みたいに農民を兵隊にしとけば西郷さんも乱を起こさずに済んだんじゃね

15: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 11:53:32.68 ID:0zBuFOvQ.ne
なんでも鑑定団に出てよ
鑑定結果をみたいな

19: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 12:38:28.64 ID:1UpYDk+B.ne
龍馬は勾陳の異名
勾陳とは北極星(天子)を守護する北斗七星。
北斗七星は北辰とも言う。
龍馬は北辰一刀流の達人でもある。

20: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 13:00:16.01 ID:/jXO8K07.ne
グラバーが羽振りがよかったのは幕末の頃だけ、明治になると岩崎弥太郎の使用人に成り下がる。
岩崎がのし上がったのは後藤象二郎による引き上げと龍馬が紀州藩との船舶事故で詐欺的交渉で
せしめた賠償金を原資とした会社設立。
紀州藩との交渉を優位に進められたのは龍馬の薩長を背景とする人脈と政治力によるところが大きい。

後藤や佐々木高行ら山内容堂の側近で上士階級が労少なくし明治政府の要職につけたのは
幕末の最終段階で、龍馬・中岡らが西郷・大久保・桂といった薩長革命勢力の大物に顔つなぎし、
革命の表舞台に引き上げてやったから、薩長側も土佐藩という大駒を陣営に引きいれられたし
龍馬の海援隊にも一時的ながら恩恵はあった。

24: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 14:36:20.13 ID:QmjItWBJ.ne
織田信長と坂本龍馬は過大評価されすぎだな

信長は過大評価というか、評価の方向性が、実像と全く別の方へいってしまっている

25: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 14:36:22.08 ID:TFJ4HURD.ne
       
龍馬のほんとうの子孫なんて実在するのか?

28: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 15:08:47.22 ID:cd6kSNrd.ne
>>25
「血縁の子孫」だから遠い親戚のようなものじゃないかね
龍馬と高祖父母が同じ、程度の

27: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 14:50:20.60 ID:/jXO8K07.ne
大政奉還は龍馬の独自の案でなくかなり以前から親藩の藩主や幕臣
の一部では議論されている、が提言の時期が難しかった。

あの時期の薩長幹部は徳川に勝てると判断し武力倒幕に舵をきろうとしていた。
そんな時期に、関ヶ原の負け組の薩長でなく徳川に土佐一国の大名にしてもらった
山内家を介しての大政奉還の動き、龍馬が関係していなければ西郷も桂も無視しただろう。

生ぬるいと思いながらも薩長も大政奉還を受け入れた。 が龍馬の本心はなんだったのだろう?
薩長連合を成功させた竜馬・中岡に土佐藩はすり寄ってきた、山内容堂の幕府寄り路線では時代
から取り残されると気づき竜馬・中岡の人脈・知名度を利用しにきた。

親藩の越前・松平春嶽だけでなく九州・四国の中立系(?)大名とも龍馬は海援隊の株主的な関係を
保っていた、今後の経営戦略からもいきなりの武力倒幕は…

32: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 17:00:14.12 ID:YYV614QD.ne
そいえば土佐藩士は道北に入植してたな。北見だったかね。龍馬の弟もメンバーに入ってたはずだ。

33: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 17:11:05.25 ID:/jXO8K07.ne
>>32
明治後、坂本家は凋落してゆき高知を離れ 一族の中には北海道へ移住したものも、たしかに
いるが弟ではない。龍馬は末っ子、弟はいない。

34: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 17:49:35.54 ID:/jXO8K07.ne
龍馬の亀山社中・海援隊は短期間に大きな海難事故を2度もおこしている。
そもそも勝の神戸海軍塾での操船技術のレベルは大して高くなく、勝自身もさほどの
の技能はもっていなかった。

咸臨丸の船長として渡米したときも操船はアメリカ人士官に任せきりで乗船していた
福沢諭吉から嘲笑されている。
福沢は咸臨丸総督の木村芥舟を畏敬し生涯を通じて交流をつづけたが、勝に対して
は『瘦せ我慢の説』などで厳しい批判者であり続けた。

もっとも福沢は明治後、勝が徳川家の管財人をしていた時期に勝邸を訪問し、
自らが関係していた鉄道や不動産開発への投資がどれほど有利かと熱弁をふるい
徳川家の資財を投資に回すよう誘った。

勝が「で 福沢先生が投資される自己資金はいかほどですか。」と問うと
福沢は一言もなく帰っていったと日記に記した。

36: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 19:51:46.08 ID:mtcPjKiH.ne
道民だが、浦臼の郷土資料館に坂本家の資料を展示しているのだから
そっちに寄贈してほしかった。

37: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/01(水) 23:57:20.25 ID:/jXO8K07.ne
新撰組もそうだが龍馬の名も明治の中ごろまで忘れられ関係者の間でときおり語られる程度だった。

新撰組は永倉新八の手記が地方新聞で取上げられ 大正になって子母澤寛が有名にし活動写真で
国民の誰もが知るようになった。

龍馬の名の復活はそれよりも作為的、薩長閥に比べ地味だった土佐系や岩崎が西郷・大久保・桂と
親密で薩長連合の立役者で日清・日露に続く軍国主義の時代に海軍の先達者(?)としての
龍馬の名を掘り起こし、併せて土佐閥に光をあてようとしたんだろ。

あとはやっぱり司馬の力だろ、司馬は明治維新は薩長や幕府でなく土佐の角度から見たほうが
おさまりがいいと対談集で語っている。
龍馬の存在は司馬にとっても都合がよかった 司馬の初期は山田風太郎とならぶ伝奇作家の分類
だったが龍馬を書くことにより歴史小説家になり国民的作家と云われるようにまでになった。

司馬より前に有名作家で龍馬を取上げたのは大仏次郎くらいじゃないの脇役としてだけど…

39: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/02(木) 04:40:43.22 ID:dB+n1Qac.ne
龍馬の家は郷士身分としては身内に商家もあり裕福だったが維新後は没落し
高知から離れる。
龍馬の縁で新政府の高官になったものは上士階級が多く、海援隊に土佐郷士身分
は多くいたが出世したものは少なく 坂本家を援助したものはいなかったようだ。

紀州藩との海難事故で龍馬が強引な交渉で決着した巨額の賠償金の入金は龍馬暗殺の
数日前に長崎で行われたが龍馬にその連絡があったかどうか…

賠償金は後藤により土佐藩の名の元に海援隊でなく名目だけの上部団体で岩崎の
ベンチャー会社に払い下げられ後の三菱の原資になった。

岩崎は後藤の私的な借財をチャラにする代わりに龍馬だからこそせしめられた数万両の遺産を
独占した、海援隊の人材は切り捨てられ 隊士たちの大半のその後の進路は自らが切り開くことになる。

41: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/02(木) 05:49:28.48 ID:3KZFh1eP.ne
司馬遼太郎の

小説以前から、龍馬は有名だったし、尊敬も集めていた。

高知県の桂浜にある巨大な龍馬像の除幕式は昭和3年5月27日である。

太平洋戦争末期、金属が不足し国民に金属類を拠出させた時に、この像も

風前の灯だったが、「海軍の創立者の像を潰すのか?」の反対意見で生き延びた。

43: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/02(木) 07:52:21.95 ID:dB+n1Qac.ne
>>41
桂浜の龍馬像は死後60年ほどたって高知県青年有志の募金よって建てられたもの
途中、三菱の岩崎家から寄付は断っているがかなりローカルな規模。

上野の西郷像は死後20年ほどで建てられ募金の規模も全国レベル。
龍馬の知名度や人気が全国レベルになるのはかなり後年のものだろう。

龍馬を「海軍の創立者」と位置づけたりもちだすのもかなり無理がある。
それにふさわしい人物は他にいる筈、ただし賊軍にされた旧幕臣の方だから…

龍馬の海軍としての戦闘歴は高杉晋作の要請で参加した幕長戦争の1回だけ、
それも主役は高杉。

東郷平八郎は「オイの海軍は坂本龍馬仕込じゃ。」と言っているがこれは
自身の謙遜と土佐閥へのリップサービス。

龍馬は寺田屋での遭難の傷の養生で鹿児島城下に何日か逗留している。
この時にまだ10代だった東郷が龍馬を見かけた程度の縁しかない。
龍馬と縁の深いのは初代連合艦隊司令長官で薩摩人の伊東祐亨。
彼らの方が「海軍の創立者」にふさわしい。

45: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/02(木) 11:44:12.35 ID:dB+n1Qac.ne
土佐藩の実質的な藩主といえる山内容堂は織田信長を気取り有能な
家来を抜擢したが信長ほどには徹底しなかった。
郷士階級は対象外で白札郷士(上士待遇)の武市半平太の御目見えを認めた程度。

武市は土佐勤王党を結成し薩長土3藩の勤皇化を計画していたが容堂がいる限り
土佐藩の勤王化は無理と武市から離れ脱藩し独自の道をいくものも出てきた。

武市は吉田東洋暗殺の罪で処刑され土佐勤王党は壊滅させられる。
この果断さは信長を思わせるがこのことが後に容堂の選択肢を狭くする。

信長は神輿に担いだ将軍・義昭を追放し晩年には朝廷をも低く見るようになっていたが
容堂は信長には遠く及ばぬ田舎大名で、時勢は勤王倒幕に流れていくが容堂は政策を
大転換させることができない。

そんな幕末の最終段階に薩長連合という大仕事をやったのは脱藩したとはいえ
自分の家来の龍馬と中岡の2人で龍馬はさらに大政奉還の建白者という土佐藩を
一気に薩長と肩を並べるステージにたてる妙案までも持っていた。

もっとも後藤は龍馬の名は容堂に告げず手柄は独り占めにした。
維新後、容堂は自分の家来の龍馬や中岡の名を各方面から頻繁に聞くようになるが生前に
御目見えを許したことは…

53: 幕末まとめ  投稿日:2015/08/09(日) 21:35:08.52 ID:EOi9ZGli.ne
日本の未来を見据えていた坂本龍馬