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3: 携帯からカキコ 投稿日:2010/09/12(日) 23:36:13 ID:ehdVx1R3O
広島城の駐屯地に兵隊として勤務してたじいちゃんの話。 

昭和20年6月下旬に山で炭を焼いてこいとの命令を受けて、 
10名程の隊員と馬一頭で県北の吉田の山に行った。 
着いた山の中は宿舎なんぞあるわけもなく、雨風をしのげるものもない。 
まずは木を切り倒して、それを元に簡易宿舎を造ることから始めたそうな。 
で8月6日の朝。ようやく炭ができて確認のため、 
窯をフタをしていた土を取り除く作業中に遠くで爆発による雲が上がったそうだ。 
その時は三次の飛行場の燃料タンクがやられたのだと思ったそうだ。 
10時に広島城の本部と定例の無線通信を試みたが応答なし。 
10時の次は15時だ。しかし応答がない。 
なにかおかしいということで隊長が馬に乗って下山し、様子を見てくることになった。 
2日後、隊長が戻って来た。 
全員下山して本部に戻ることになった。鉄道は運行していたそうだ。 
民間人は広島駅には降りられず、一駅前の矢賀で降ろされたらしい。 
じいちゃんたちは軍属なので広島駅へ着いた。それが8月9日の晩のこと。 
建物がなくなってるので駅から宇品の海が見える状態だったそうだ。 
そこから徒歩で浅野庭園の脇を通り、本部に戻った。 
その場には軍属がいたそうだ。原爆が落ちた時はたまたま出張中であり、九死に一生を得たようでした。 
その日はそこに泊まることになったが建物は吹き飛んで仕舞っているので野宿したそうだ。 
転がっていた便所の踏み板を枕にして寝たそうだ。 
翌朝から片付け作業開始。辺りを歩いているとまだ建っている建物(鉄筋コンクリ?)があり、 
中を覗くと部屋の中央に人骨の山ができていたそうだ。 
それらは日光を浴びキラキラ光っていたらしい。 
熱線を避けるため、窓から離れた部屋中央に人々が集まってきて亡くなったのではないかと 
じいちゃんは推測している。 
広島城の堀にも死体が浮かんでおり、回収して福屋の一階に運んだとのこと。 
またある時は、アズキを見つけたこともあった。 
上部は黒焦げになっていたが、すくってみると下の方は問題なさそうだったので 
赤飯を作って食ったらしい(現在の感覚からすると考えられないことだが)。でそのおかげで下痢が治ったらしい。 
そんなこんなで3週間程広島で勤務した後、命令で岡山に転勤になったとのこと。 
その時に検査を受けたら白血球の数が通常の半分にまで減っていたそうだ。 
じいちゃんは今も存命です。ガンにも白血病にもなったことがないです。 
ただしかなりの数の同僚が体調を崩したり病気で早くに亡くなっているそうです。 
直撃を避けられたこと、3週間程で転勤することができたのが大きいと言ってたおります。


31: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/06(水) 14:47:02 ID:jgbyCRkH0
大叔父から「満州でシナ人の首を日本刀でばっさばっさと斬ってたんだぞ」と 
自慢されたことがある。子供の頃なんであまり詳細は覚えていないのと 
その話を大叔父が始めると他の大人がたしなめてたんでどういう状況だった 
のかは分からない 

特高だった祖父から父が聞いた祖父の同僚の話 
経済学を学んでる学生がどうもアカらしい、とその学生の下宿に検挙に 
向かった同僚は、本棚にマルサスの本があるのを見つけ 
「マルクス読んでる貴様はやっぱりアカだろう!」と 
その学生を引っ張ってきて取り調べ(という名の拷問)をしたそうだ 
学生が「経済やってるなら誰でもマルサスは読む」といくら説明しても 
まったく取り合わなかったとか 
残念ながら自分が生まれる前に祖父は亡くなったので他に特高の話は知らん
32: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/07(木) 09:36:44 ID:QNQAyB+B0
うちの爺さんの終戦時は鹿児島の基地で特攻隊としてスタンバイ中
玉音放送聞いて、飛行停止命令が出たけど、命令無視して発進して
桜島に飛び込んだり、海に突っ込んだりするのが相次いだが、
隊長は止めなかったってさ。止めなかった隊長は後に激しく批判されたけど、
あの時の状況じゃ無理もなかった、後の価値観で判断するのは無理だ、
大勢の仲間が死んでいったのに、おめおめと生き残れるか、という気持で、
俺も自決したかった、と言ってた。
爺さんがようやく前向きな気持になって生きていく覚悟がついて
大学に復学したのは昭和21年4月だから、半年以上も悶々としてた事になる

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/08(金) 12:41:15 ID:kovpJIDR0
婆さんが初めて爺さんの顔を生で見たのは、結婚式の当日。
爺さん京城で教師していたからね。見合いも何もなし。京城に帰るのが新婚旅行。
でも当時田舎ではそれが普通で、親が決めた人と結婚するものだと思っていた。
覚悟はしていたが、結婚生活は嫌で嫌で仕方なかった、とこぼしていた。
爺さんは真面目で優しい人だったけど、見た目が悪かったから
新妻から嫌がられるのも仕方ない。婆ちゃんはすらっとした美人だったし。

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/08(金) 16:26:52 ID:X3kJAMsU0
うちの祖母は、祭の人混みを歩いていたら、祖父に見初められて、知らないうちに結婚が決まってたそうな。
若い頃は『○○小町』と云われたほど地元では美人で有名だったらしい。
私が生まれた時は、祖父は他所に女を囲い、家に来るのは盆と正月くらい。
二つの家庭を持ってたらしい。
小さい頃は、どの家もじいちゃんは他所に住んでるもんだと思ってた。

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/09(土) 04:21:04 ID:KDp2d7kL0
うちの爺さんは戦争末期に呉の海軍工厰にいて、原爆のピカとキノコ雲を見て
慌てて広島に駆けつけて、原爆投下当日の地獄絵を見ている。
だけど余りの悲惨さに「とても言葉で表現出来ない」と言ってたなあ。
あれだけ凄まじい被害だと、現実問題として救援に行っても手の付けようもないしね。

関東だから、被爆手帳持っている人間は珍しくて「原爆投下直後の話を聞かせてくれ」と
各種団体から講演の誘いがあったけど「あの状況は言葉で表せない」と全部断ってた。
投下時に広島市内にいて幸運にも助かった方は、状況を話せるみたいだけど
爺さんのように近くから駆けつけて、客観的に被爆現場を見てしまった人は
その後の人生で、ずっと負い目を感じて生きていたみたいです。
本人のせいじゃないけど、感情の整理はなかなかつかないでしょうね。

94: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/12/26(日) 03:48:25 ID:bGGQtl3a0
>>37
おお ウチのじいちゃんも広島の呉にいたんだよ。
しかも同じ海軍。ひょっとしたら会ってたかもね。
ちなみに敵軍(アメリカ)の無線を傍聴翻訳がメインの職務だったらしい

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/12(火) 17:20:16 ID:u00FtXHK0
爺ちゃんも戦争が終わった時は、大日本帝国の終焉という感慨より
「今夜から空襲がなくなる」「戦地の兄が生きて帰って来る」
「家族が皆無事だった」みたいな安堵感の方が大きかったと言ってたなあ。

8月15日の晩は灯火管制がなくなって、どこの家も煌煌と明かりを点けた
久々の明るい夜で、戦争が終わった喜びを実感したと言ってた。

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/26(火) 00:15:49 ID:en1DgFRO0
祖母は小学校時代飛行場で特攻隊の出撃を見送ったことがあるそうだ
笑顔だったり強ばってたり常人の普通の表情と大して変わらないんだけど
もうこの世の者じゃないような、なんとも言えない顔つきをしてたそうだ
告別式の棺桶の中の死人のほほえみみたいだったとも・・・・
彼らがこの世の地面と永遠に縁が切れる離陸の瞬間は、未だに夢に見るらしい
あと、飛行機のペンキが剥げかけてたりマダラだったりするのが可哀想で
せめて死に際なんだから真っさらな綺麗な飛行機で行かせてあげればいいのにと言ってた

45: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/30(土) 01:08:21 ID:Vib+Q8NG0
うちの爺さんは大正9年生まれ仙台に住んでたけど
長男だったため赤紙は最初来なかったッと言ってた。
その後長男でも徴兵されると聞いてずっと仮病をしてたって笑いながら言っていた。
ただ戦争中は爆弾がいつ落ちてくるか解らないけ怖さがあったらしいけど、
どこにいても爆弾が落ちてきたら終わりと半分開き直っていたらしい。
戦争が終わり仙台の町もひどいことになっていたらしいけど
みんなで集まって「地ならしに行くぞ」って大人数で道を固めに歩いてたらしい。
もう戦争が終わった喜びでみんな再興に必死になっていたと言っていた。
結構虚言癖がある爺さんでもう亡くなったから真偽はわからないんだけど
その話を聞いていた婆さんがいつも涙目になっていたので本当に辛い過去なんだと
子供心に思った、その後は仕事を始めてが忙しくなってからは県外に住むようになって
あんまり話が出来なかった、もっと話していればよかったと悔やまれる・・。

77: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/11/28(日) 17:07:27 ID:yqOJcjj+O
父方の祖父
「俺の周りで戦争に行きたくて行ったヤツなんぞ誰もいねえ。逆らうと上官にぶん殴られるから行っただけだ。」

母方の祖父
「戦争なんて嫌だからわざと脚に銃弾受けてわざと化膿させて帰ってきた」

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/11/28(日) 18:30:07 ID:4ksmNKE70
>>77

いろんな考えがあるんだからね

81: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/11/29(月) 02:19:07 ID:VQ5PxyCR0
>>79
同意。

戦争楽しかったって話こそ、聞きたいんだけどな。
そういうひとが、口を噤んでいるのが、残念。

84: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/12/01(水) 20:57:45 ID:S03s7DJS0
うちの爺ちゃんの部隊は戦争中台湾に駐屯。台湾は暖かいし、日本語通じるし
戦闘は全くないし、食料がとてお豊富で内地じゃ貴重品のバナナが食べ放題で、
女性は綺麗で(内地の女性はみんなモンペ姿で化粧も全くしていなかったけど、
南国はスカート姿でオシャレもしていて、まぶしいほど綺麗だったらしい)、
住民はみんな朗らかで、こんないいところはないから、戦争終わったら
台湾に移住するつもりだったらしい。でも、その願いはかなわなかった。

87: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/12/02(木) 14:32:39 ID:zfeWR6kc0
埼玉の農家だから、東京から「食べ物と交換して下さい」と大勢来たけど
都会の人は玄関前に土下座して、高級な着物をわずかの豆やイモと交換して可哀相で
見てられなくて、爺ちゃんの両親も困ってたと言っていた。

可哀相だからと気前よく交換すると、翌日から沢山来てさらに困るし、交換してあげないと相手が困る。
それで村から1kmほど離れた神社で交換していたら、闇屋まで来るようになって臨時交換所は閉鎖。
仕方なく、毎回場所を変えて交換するようにしたらしい。
相手の足元を見て都会の人に威張り腐って無茶な要求する農家もあって嫌だったって。

集まった着物や帯や時計は、昭和30年頃質屋さんに引き取ってもらったけど二束三文だったと言ってた。
時間も経ってるし、仕方ない。

99: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/12/29(水) 18:57:38 ID:pRiBV23F0
海水浴をしていたら関東大震災が発生して
あたり一面の海水が一瞬にして消えてしまったらしい
近くにいた近所のおじいさんに津波がくるから早く山へ行きなさいって言われて
大焦りで避難したみたい
凄い勢いで潮が引いたというのになぜが津波は来なかったいう・・・

104: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/12/30(木) 11:45:34 ID:kEDzoS3h0
祖父は明治40年の生まれだが、小学校出て商家に丁稚奉公。
盆や年末の小僧さんの仕事に遠隔地のお得意さんの売掛金の回収がある。
田舎だから金を持っての峠越えには山賊が出ると言っていた。当時は姿形で
商家の小僧さんだと一目で分かるしね。山賊から自分の身と売掛金を守る方法として、
郵便局の局員さんと一緒に峠を越えると言っていた。
現金書留があるから郵便局員も山賊に襲わる可能性があるので、
郵便局員は特別に拳銃を携帯を許されていて、発砲訓練や護身訓練も受けていて
局員と一緒なら安全だったので、局員の移動時間を覚えておいて後ろをついて行ったそうだ。
局員さんの制服姿や拳銃が頼もしくて憧れだったそうで、
よく楽しそうに峠越えの話をしてくれたなあ。
場所にもよるが、大正期一杯ぐらいまで山岳地では山賊出たみたいだよ。
「ああ野麦峠」にも中山七里の山賊の話が出ている。あれは明治末頃の話だな。

106: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/12/30(木) 12:34:47 ID:vYklMFFc0
>>104
へ~
自分が無知なだけなんだけど、普通に勉強になったわ

124: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/01/11(火) 18:23:40 ID:nnKO2JMy0
うちのばあさんは大正末期うまれ。

女学校時代は、陸上部で走り幅跳びの選手だった。
戯曲、小説などを濫読したり、
学芸会?では、肉弾三勇士に扮して、そのあまりに勇猛果敢な
演じ方で、ファンレターがきたとかこなかったとか・・・。

卒業後は、大学教授の家に行儀見習いにだされ、
後に祖父と結婚。

祖父は、甲種合格後ある歩兵連隊の旗護兵として出征
徐州会戦→昭和15年除隊→昭和17年応集→バリ→ビルマ→サイゴンにて
終戦。

極貧の出で、小学校時代は一日2食。昼は水を飲んでがまんした。
軍隊は、衣食住がそろっていて天国だと思ったそうだ。

ばあさんとは、当時教官を務めていた青年学校でしりあった。
ばあさんの親戚は猛反対したそうだが、料亭で婚礼をとりおこなった。

ビルマでは軍曹だったが、上官が戦死するので急遽大尉の階級章を
授けられて食料確保などにあたり、辻参謀が部隊に現れたとき、
重機関銃の弾が6発しかなかったのをみて驚いたそうだ。

マラリアにかかったとき、部下が英軍の食糧倉庫を襲撃してコンデンス
ミルクを奪い、それをもらって飲んだら回復した。

たいめん鉄道を汽車で移動中爆撃にあって列車が横転し、多数の仲間が
死傷した。自分も下敷きになり足を負傷したが、奇跡的に軽症だった。

部下が戦死した際、小指をきりとり ひもにとおして運び、焼いて骨として
空き缶にいれて日本まで持ち帰った。

サイゴンから日本へ帰国するとき、航空母艦が引き上げ船で、
仲間とキャッチボールなどしてすごした。

祖父の慰問袋を空けたら、除隊証明書、92式重機関銃の操典、
支那事変従軍徽章、しらみだらけの「軍帽につけるひさし」なんかが
はいっていた(ほかにもいろいろ入っていた)。

360: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/11/05(土) 23:25:15.84 ID:D//Xdzjh0
俺の父が旧満州在住時に同じ旧制中学で同級の奴が、
実に配属将校にゴマすりべったりで、その配属将校がゲートルを解いて靴を脱ぐ時になると
毎度信長に対する秀吉の如く、甲斐甲斐しくゲートルを解いて靴を脱がせてやってたそうだ。
そんな感じの奴が時も過ぎ、そいつは某国営放送の編集委員となり、平成元年のN○Kスペシャルでの
ホストとなった憲法特集番組で「当事の日本の上層部がもっと勇気を持ってファシズムなどに対するべきだった」
てなことをのたまっていた。日々の暮らしでそういうことを垣間見ると本当に大いに笑えるね。

361: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/11/06(日) 00:54:23.25 ID:8bSDpg5T0
>>360
おもろいな。

マイクを向けられると、相手が求めている答えを口にしてしまうと言う性質もあるから、
一概には言えんけど、「戦争体験証言」も疑ってかからんとな。

151: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/03/01(火) 23:05:56.59 ID:Nsj8FtMy0
地球温暖化と言われてるが

ばあちゃんに聞いたら昔だって夏はやっぱ暑かったって

まだ子供の頃 
ある時 ばあちゃんの親父が夜中に突然「暑い!」つって
家の壁に水をぶっかけまくった、って言ってた。

時代は大将デモクラシー   

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/03/02(水) 14:54:44.35 ID:kRdT/SJU0
>>151
こういう、なんでもない話もいいな。

大正だと、都市部では水道がすでに出来てたな。
ってことは、ゴムホース? ゴムホースってあったんだろうか?
家屋に水かけられるなら、三軒長屋ではないな。
あぁ、平屋か。瓦が熱もったら夜は暑つかろうに…。

こんな風に次々連想出来るのがいいんだよね。
もっとあったら、聞きたいです。

183: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/03/29(火) 10:31:01.21 ID:VF7oqgzq0
俺の婆ちゃん、今は福岡に住んでるんだけど元々は東京生まれ。
小学生の頃、毎朝靖国神社で掃除させられてた。

ある日いつものように掃除してると1人の軍人さんがやってきて、
「偉いね。感心感心」って頭をなでられたんだと。

その軍人さん、東条英機だったらしい。

185: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/03/30(水) 18:08:42.15 ID:AVKZ49Kw0
>>183
東条英機とかすごいな
軍人って優しい人もいたんだな

186: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/03/30(水) 18:40:15.55 ID:sXDgSLR10
東條英機は、民家のゴミ入れ(昔は各家の道に面した所に必ず設置してた)を
覗いて回っては、贅沢していないか等の民情視察をしてたという人だから、
良く言えば庶民的で腰の軽い人、悪く言えば秘密警察体質だったんだろうな。

187: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日:2011/04/03(日) 01:21:41.00 ID:zQ4yWfY00
戦争中、じいさんは某半島にある軍事港に召集された。
そこで訓練を受けて東南アジアに出征する予定。
訓練中寝ずの番があり、ほとんどの兵隊はこっくりしてしまい上官に叱られた。
がじいさんはこっくりしてもタイミングよく上官が見回りにくる前に起きたので、
「お前はなかなかできる奴だな」と誉められて可愛がってもらったらしい。
いざ港に船がきた頃じいさんは病気になって家に帰らされた。
いわく「俺は要領がいいんだ」
じいさんが乗るはずだった船は出港してすぐに敵の攻撃を受けて沈没した。
こういう話を警察官だった娘婿に酒の席でよく話していた。
そういえば押入れに銃があったのだが、あれはどこへいったのだろう?


じいさんの弟は帝大生だったので、士官になってグアムに出征した。
現地の人にとてもよくしてあげたそうで、帰国時海に落としてしまった腕時計を
現地の人が一生懸命探して見つけてくれたそうだ。

昭和40年代、この大叔父の大学生だった長男が行方不明になった。
長男の下宿をじいさんが訪ねたら、身の回りの品も、貴重品(健康保険証や
通帳の類も)そのままで、住人は連絡が取れず行方も分からないまま。
当時北の国へ連れていかれることが多く、優秀な学生であった彼も
連れていかれたのだろうと語っていた。

ばあさんの体験談では、濃尾地震の折は出かけていて、ものすごい揺れがあって
自宅のほうを観たら土煙がもうもうとあがってなんだろうと思ったら、
自分の家の土塀が崩れていたんだと。
伊勢湾台風の時は、家がガタガタと揺れて皆で蔵に避難したが、ひいじいさんは
「誰かがおらんと家が壊れる」
と、1人で家に残ってたそうだ。
ひいじいさんがじいさんに買ってあげたグランドセイコーの腕時計は
自分が大事に持ってますが、いくらくらいの価値があるんだろう。

209: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/05/11(水) 16:18:11.87 ID:4lAW8uQi0
もう亡くなって10年以上経つ爺さんから聞いた、
幼少時(戦前)自宅から出火し、兄弟10人中5人が焼死した。
当事爺さんの親父は、関西の某有名私大の学長選に出馬していた。
爺さんの親父は、対立候補側の仕業であると確信し、
警察に訴えたと言う。
だが、警察が対立候補に買収されており(あくまでも爺さんの主張)事件の
捜査も進まず、身の危険を感じた爺さんの親父は学長選を辞退したという。
戦後、放火犯とその依頼者が打ち合わせをしていたとの目撃証言が
新聞に載り、ようやく事実が日の目を見たという。
子供の頃、その墓参りに行ったが五児の悲劇を詠った俳句が彫られた
石碑が建てられていた。

223: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/09(木) 18:03:24.23 ID:q9rtXazL0
聞いた話ではありませんが、このようなものが見つかりました
これは私の曽祖父が書いたもので(なので苗字を一時伏せさせて頂きました)親戚が大事に保管していたものです
この文章で始まり、其々婦人会や御家族の方々の写真が綴られていました
本当は縦書きだったのですか、綺麗に揃えられなかったので横書きのままですいません
昭和14年で2周年という事なので日中戦争ですかね?

     御挨拶
聖戰早クモニ周年ヲ迎ヘ此ノ間本村
出身ノ将兵諸君ニオカレテハ空ニ陸
ニ海ニ輝カシク叙勲ヲ樹テラレ吾ガ
郷土ノ武威ヲ發揮サレツヽアル事ハ
吾等村民ノ等シク感謝スル処デアリ
マス
銃後ノ村民ニオキマシテハ諸君後顧
ノ御心配ナキヤウ御家族ヘノ手傅慰
問其ノ他出来ル限リノ御世話ヲ致シ
ツヽアリマス   
硝煙弾雨ノ下アラユル困苦缺乏ニ耐
エ皇國ノ為ニ働イテヰラレル諸君ヲ
偲ビマス時何トカシテ御慰労申シ度
イト思ヒマスケレドモ届キ兼ネル事
ノミニテ相済マナイ次第デアリマス
ガ今回諸君ノ御家族其ノ他村ノ種々
相ヲ撮影シ諸君ニ御贈リスルコトニ
致シマシタ就キマシテハ少シデモ御
慰メノ役ヲ果スコトガ出来マスレバ
此ノ上モナイ幸ト存ジマス
最後ニ諸君ノ武運長久ト層一層ノ御
奮闘ヲ御祈リ致シマス

昭和十四年九月十三日 福田村銃後奉公會長
     上益城郡 福田村長 ●田 茂

福田村出身将兵殿


写真は、笑顔だったり、真面目そうだったり色んな表情をしていましたが
悲しそうな顔をしている方はほとんどいらっしゃいませんでした
出来れば写真もあげたかったのですが、スキャナーが無いもので

私の祖父も軍人として戦争へ行き多くの友人を亡くしたと言っていました
晩年は痴呆もあり、亡くなった友人の名前を叫んだりしていたものです
戦争当時の話はあまり聞けませんでしたが、しかし
その少ない機会の中で、楽しそうに悲しそうに誇らしそうに語る祖父の顔を今でも覚えております

このような古いだけの文言ですが、皆様の当時の事を考える上での一助となれば幸いでございます

224: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/10(金) 23:52:09.35 ID:AeHrBG6dO
>>223
貴重なものをありがとう!もう一度一生懸命読み返してみます。

226: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/17(金) 18:24:48.39 ID:dkKlJcbg0
もうすぐ90になる婆さんの母親がお歯黒をしていたらしい。
塗り直しているのを覗き込もうとしたら、子どもは見たらいかんと追い払われたとか。

228: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/20(月) 18:34:17.72 ID:iVonjK4NO
お歯黒は禁止令が出たが、ひっそりとお歯黒をしていた人も居たと聞く
貴重だ

386: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/12/06(火) 16:47:50.23 ID:VlCSkrEP0
>>228
私の曾祖母は
鉄漿をするのを子供の頃の母に見せてあげた事があったそうですよ

239: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/29(水) 12:09:56.55 ID:8dIwMwmlO
うちの田舎は岩国市で
広島に原爆が落ちた時
祖母は茸雲を見たらしい

家が農家だったので
戦争も末期になる頃には
着物などを抱えた人が
芋と交換して欲しいと
訪ねて来ることも
あったそうだ。

276: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/08/12(金) 11:52:45.99 ID:Lrn9NXLz0
>>239
上海から長崎の閃光が見えたそうだ

240: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/29(水) 12:21:50.14 ID:ypDALT8BO
私の祖父では無く、年上の知り合いの祖父の話なんだが・・・。
その人は子供の頃、上野の外れに住んでいたそうで、ある日、「急いで逃げるんだよ」と母親に急かされながら家から逃げ出した。
雨上がりの蒸し暑い中を、「今日は何でアブの羽音が五月蝿いんだろう?」と母親に手を引かれながら思ったそうです。
大人になって、その日は上野戦争が有った日で、アブの羽音だと思っていたのは小銃弾の飛翔音だったと判ってぞっとしたと同時に、流れ弾の中をずっと手を引いていてくれた母親に感謝したそうです。

256: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/07/13(水) 12:59:04.70 ID:ppPxcMs+0
うちの曾祖父は日露戦争に出征して第二軍として遼陽や奉天で戦っている。
あの世代は「俺達が体を張って日本を世界の一等国にしたんだ」という意識が強くて
第二次大戦中も「東條は国賊だ」と人前で平気で言い放ったり、
自由主義者や無政府主義者を家に匿ったりしてたから、警察署に呼び出されたが
「友人を家に泊めて何が悪い」と逆に署長に食って掛かったりしてたから
家の周囲には特高がいつもウロついていた。在郷軍人会長じゃなかったら逮捕されていた。
終戦後は、戦中に在郷軍人会長してたのでパージにあって、雨後のタケノコみたいに現れた
アカに集中攻撃を浴びて「せっかく戦争が終わったのに、特高の嫌がらせより
アカの嫌がらせの方が悪質だ」と嘆いていたそうです。
朝鮮戦争が始まると、今度はアカの連中がパージ食らって、曾爺さん達が復活して、
昭和30年頃まで町中が落ち着かなかったらしい。

257: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/07/13(水) 13:18:52.19 ID:7ujIHbzqO
祖母の話。
遠くの空が急に明るくなり、それはそれはキレイだったらしい。「花火みたい」と近所の人達みなで見学。
何かが分からず、近所の退役軍人のおじさんに聞いても「分からない…」とのこと。
だんだんその花火が近づいてきて…

三重県津市が初めて空襲された日の思い出話。

260: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/07/17(日) 23:34:00.24 ID:1aRxi6oMO
俺の曾じいちゃんのそのまたオトッツァンは奇兵隊(到人隊)の兵士で戊辰戦争経験者(卒だけど)。五稜郭まで転戦した後上京して御親兵の下士官になった。
でもどういう経緯かいつの間にか熊本鎮台に移って台湾出兵を経験。日清戦争で戦死。農民が兵士になるというのは士族には我慢ならなかったらしく随分ボコッたらしい。(言い伝え)
これが陰湿な陸軍の営内イジメのはじまり

262: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/07/20(水) 05:34:31.14 ID:zCGjKpefO
うちの爺さんは戦争中、中国方面へ行ってたらしく、現地の料理を楽しんでたみたいだ。
特に鶏の唐揚げ?みたいなのが美味かったらしく、
ケンタッキーで、店員さんに、
「何でアメリカが元祖面してんだ!!」
って食ってかかってた。
んで食い終わると、骨で雑炊作れだの何だのと言い出すから恥ずかしくてよく放置して先に帰ってたなぁ。

305: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/09/28(水) 00:03:43.51 ID:4Y1fB+MI0
もう20年近く前に亡くなってしまった祖父が、私の母にだけ話してくれた話。
祖父は長崎に住んでいた。既に結婚していて妻も子供も居たけれど、みんな原爆
で家も無くなり家族も死んでしまったそうだ。この辺はうろ覚えなんだけど、祖父は
奇跡的に原爆投下時に、頑丈な建物の中にいたのか、無事だった。三菱の関連施設
だったかな?
家族が心配になり、自宅のあった場所へ急いで向かったが、家は跡形もなく
妻がいつも見につけていたロザリオだけが見つかったって。

その数年後に私の祖母(現在94歳)と再婚した。

319: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/10/23(日) 12:37:45.46 ID:IYBqeJIr0
俺らの親の世代は、新撰組関係者に直接、当時の様子とか訊けたんだよな。

で、俺らは、二次大戦、戦後復興の話なんかがまだ訊けるんだけど、
べらべらしゃべってくれるのは、思想的に偏った、戦争大嫌いな人たちの声ばかり
その人や話自体に罪はないけど、はっきり言って食傷気味。

321: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/10/23(日) 15:53:59.74 ID:73RUBbiC0
>>319
食傷気味って、おまえの娯楽の為に話してくれてるわけじゃねーよ。
人としての質が低いな。

332: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/10/24(月) 01:26:30.89 ID:ndpcW4no0
>>321
戦前のいわゆるリア充であれば、当然、戦争には反対してなかったはず。
戦後の食糧難で、生活力がある人なら、非合法の道も恐れず突き進んだはず。
そういった人のほとんどが口を噤んでる。常識を兼ね備えた人なら、なおのこと黙ってる。

じゃあ、いまべらべらしゃべってくれるのは、いったい当時、なにやってたひとなの?って話。
積極的な証言者の全部とは言わないけど、そのうちのかなりが、
日教組や共産党のプロパガンダに感化されて(しかも、自分では影響を受けたとは思っていない)人たちだと思うよ。

334: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/10/24(月) 03:05:30.66 ID:XDIGkANH0
うちのじいちゃんは戦争に積極的に加担してたな。だから戦時国債を
大量に買ってたし、田舎に残してた田んぼを戦後全部農地解放で奪われた。
貧乏人には同情するが、農地解放で得た土地を70年代に高値でうちの
おやじに買い戻させて、そのあとの80年代バブル期にまたぞろ買い戻した
貧乏人の小作のセガレどもにはいい目をみたよな!とおもってるw

335: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/10/24(月) 03:17:07.30 ID:ndpcW4no0
>>334
じいちゃんも、小作人たちもしぶとくて、いいなw

340: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/10/26(水) 01:18:50.28 ID:0imXKmiD0
爺さんはスマトラ島に行ってコックさんやってたって。
卵だけはたくさんあるからいつも茶碗蒸しばかりで兵隊さんうんざりしてたとか
ウミガメを敵兵の上陸だと勘違いして大騒ぎしたとか。

348: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/10/27(木) 02:25:49.79 ID:HNiBsITFO
親戚のオッサンは南京にいたらしいが、当時は、皇族が、こられるといって、部屋の掃除ばかりさせられたそうだ
銃声はあまりなく、殺人なんかみたことないそうだ
後、南下し、ビルマあたりで終戦
当時の傷が生々しかった。

384: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/11/23(水) 16:27:50.81 ID:ckY52GaCO
婆ちゃんの戦後の話
北陸の糞田舎金沢に進駐軍の白人がやって来た。
ある日キャンプを覗いて見ると白人が質素な物を食っていたので、ひい婆ちゃんに報告。
するとひい婆ちゃんが「可哀相だから、これを持って行きなさい。」と言って鍋一杯の治部煮を渡して持って行った。
味見をした白人からは感謝され、大量のコーンビーフやココアなどをお返しにもらって帰宅した。
肝心の白人が食っていた質素な物はフライドポテトでした。

403: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/12/31(土) 11:38:44.16 ID:1bUUpOBc0
明治生まれの祖父母が子供の頃には
狐憑きや狐に化かされた人が
普通に身の回りに沢山いたらしい
祖父も奉公を始めた頃に川岸で列を作って横切る狐火を
毎朝見ていたそうだ
勿論それが何だったのかは不明だ

404: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/01/02(月) 22:30:40.29 ID:K/z0oXMh0
東京出身の祖母は幼い頃には使用人に囲まれて不自由なく暮らしてたそうだが
戦争終了時には身寄りも使用人もいなくなってしまった。
農家に着物を持って、食料と交換しに行っても、足元を見られてまともに食料を分けてもらえなかったらしい。
なので、祖母は今でも田舎者や農家が大嫌いw
相手が田舎出身だったり農家出身だったりするとあからさまに嫌そうな顔をしてた。失礼極まりない。

高級な着物を献上しても僅かな野菜としか交換してくれない農家が、熱を出した子供のおでこに
きゅうりの薄切りを乗せて熱を覚まさせているのを見て、惨めな思いをしたと言ってた。

405: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/01/02(月) 23:26:17.50 ID:DKa2GikD0
戦中は身内に戦死者が出ても悲しんだ素振りを見せてはいけない、
というのが常識みたいになっているが、
我が家に伝わる話だと、祖父の弟が戦死した時、人が大勢いる前
でその報を聞いた曽祖父は人目も憚らず号泣したと言っていた。

423: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/01/14(土) 14:36:43.68 ID:wa+9VgnP0
私が幼い頃に住んでいた祖父母の家には
天井に焼夷弾が落ちた跡があった
義理の伯父の父母の墓には鉄の門扉が付いていたのだが
それも戦時中に没収された
父は終戦時に国民学校の生徒で玉音放送を聴いた記憶もはっきりしてるのだが
「ああ終わったんだな」と思っただけで
悔しいとかそういう感情は不思議と起こらなかったと言っている

431: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/02(木) 15:00:45.85 ID:kZwAzTKj0
戦時中の話。
俺のばあちゃんの弟の話。
弟さんは負傷者とか載せてる大型機のパイロットだったんだって。
そうゆう機体には目印が有って、攻撃してはいけないんだけど、米軍機に撃墜されて戦死。
正月にばあちゃんが泣きながら話してくれた。

432: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/02(木) 15:07:31.20 ID:kZwAzTKj0
同じく戦時中、書き忘れてたけど第二次世界大戦ね
ひいばあちゃんは金持ちで、でかい寺に住んでた
寺って大きいから、空襲に来た米軍機が故障で投弾できなかった爆弾を捨てていく時、標的にされるんだって。
だから防空壕作ったらしいんだけど、近所の人たちも作ってたのは知ってたから、いざ空襲の時作った本人たちが入れなかったそうな。
それでもひぃばあちゃんが、自分たちは良いからせめて子供は入れてくださいってお願いしていれさせて貰ったらしい。
ひいばあちゃんとひいじいちゃんは寺でラジオ聞いてたって。

433: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/02(木) 15:18:02.89 ID:kZwAzTKj0
空襲が酷くなって、ばあちゃんが疎開した時の話
場所は忘れたけど、海の直ぐ近くに疎開した
海が近くなので当然海に地元民と泳ぎに行く、当然ばあちゃんは水着を着るけど地元民は男女かまわず全裸
ぼんぼんで育ったばあちゃんからしたら衝撃だった、地元民に「おめえ何服きて海に入ってるんだ」と言われて水着を脱がされたと笑いながら話してくれたよ
最初は恥ずかしかったらしいけど直ぐに慣れて遊んだって。
予断だけど疎開してた場所に戻って、直ぐ又をおばさんに洗ってもらったらしい。(砂が入って痛かった)


ってか昔で小中高大を通うって凄い事なんだな。しかも女で。

444: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/02(木) 23:29:25.59 ID:kZwAzTKj0
玉音放送の日の話を…
当時ラジオは高価で、金持ちが周りの人達に放送を聞かせてあげてたらしい。
玉音放送の日、ひいばあちゃんの家(寺)に人々が集まってくる
放送が進むにつれて、すすり泣くと言うか、鼻をすする音と共に声が聞こえてくる
その内容が、「負けるはずが無い」だとか「ふざけるな」だとかそんなのじゃなくて実際は
「やっぱりな」だとか「惨めだ」とか「悔しい」といった諦めとかそう言った感じのだったらしい。
中には竹やり五本くらい背負い、有志を集ってロシアに行こうとする人もいたらしい(漁師の方々)
そこでひぃじいちゃんが演説してまとめ戦後の混乱とかを収めていったと聞いた。
今でもその事に恩を感じてる人がたくさんいて毎年年賀状きます。

471: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/16(木) 00:52:11.23 ID:QmEOuB4t0
こんなスレあったんだね。

婆ちゃんの弟が五・一五事件で犬養毅のとこに乗り込んでった内の一人。
今ためしに検索してみたらwikiにも名前思いっきり出てる。びびった。
父は出所後の婆ちゃんの弟(父からしたら叔父か)に会ったことがあると言ってた。
どんな人だったのか今のうちに聞いておこう。
事件の是非はともかく暗殺なんてしちゃってるわけだから周囲にも言えないし
やっと吐き出せたわ。

婆ちゃんや爺ちゃんも獄中当選やら大学作ったりやら相当アグレッシブだったらしい。
自分が生まれる前に亡くなってるから直接話を聞けないのがすごい残念。
誰だったか忘れたけど教科書に出てくるような当時の有名人と知り合いだったとかで
「○○のおじちゃん」とか言ってたらしい。
父は話し始めるとクドいし長いしで面倒だけどもうちょい聞いておこう。

472: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/17(金) 10:11:44.52 ID:/2EvRlwT0
五一五の人たちって、結構その後も政治活動をしてたりするよね。
凄く興味があるなあ~。どなただろう。

474: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/20(月) 22:56:52.61 ID:gM9szrhu0
>>472
父に改めて聞いてみたけど、政治活動は殆どしてなかったんじゃないかと言ってた
名前は出せなくてすまんが、姉である婆ちゃんは戦後に平和運動してたらしいよ
婆ちゃんと結婚した爺ちゃんは典型的な左派活動家だけどそれで姉弟仲が悪くなることもなかったみたいだ
(五・一五が右派的な事件でなかったらすまん)

475: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/21(火) 22:21:25.19 ID:NeQtqsq80
>>474
興味本位のレスにわざわざありがとう。

戦前に政治活動に関わった人の家族から
憲兵に追われて大変だったみたいな話を聞いてたから
興味があったんだ。

476: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/23(木) 07:22:42.51 ID:WvR/P8KL0
 今生きていれば百歳以上になる曾祖母が娘時代、山梨県の甲府近郊に
住んでいて、関東大震災に遭遇した。
 祖母の村の被害は大きくなく、その日の夕方、
村人総出で、壊れた家屋の片づけや怪我人の手当などで大わらわだった時、
東の空を見たら赤く染まっている。
「甲府が火事だ、避難しろ」となったが、
一向に火の手がこっちに来ない。
 みんなで見つめていると、空が暗くなるにつれてものすごい紅蓮の炎が
天高く上がるのが見えてきた、と。
「甲府の火事ではなさそうだ」「八王子だろうか」と言いあううち、
「あれは東京のど真ん中の火事だそうだ」という報がどこからともなく伝わって
きて、一同、びっくり仰天したそうだ。
 甲府の郊外の村から、浅草や本所の炎が見えるとは思わなかったと曾祖母の弁。
突風にあおられて炎が非常に高くなったせいだろう。

478: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/23(木) 23:15:02.97 ID:CrV/uLX/0
>>476
小笠原諸島から、東京大空襲の火災は見えたそうだからな。
甲府だったら、見えたんじゃないか?
本所被服廠跡の火災旋風は、史上最大級だったろうし。

501: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/27(金) 07:47:00.35 ID:DKtKKmnD0
祖父は食料が万全とはいえなかった戦地ではヘビやカエルを食べたという。
ヘビはしらないが、カエルは実際に食用の大蛙をさばくのを見た。
何十年ぶりだろうに、いい手際で、普通に鳥をさばくみたいな感じだった。

あと、年末年始には地元で宝船というのうを作って、それを代表して東京の市場に
売りにいったそうな。今で言えば数十万から百万しないくらいで売れたんだとな。
(1個でなのか複数でなのかは不明)
そんで売り上げから自分の取り分を使って、東京見物を兼ねて一晩過ごしてから帰ってきたという。
これは戦後しばらくまで続いていたらしい。戦中はさすがに無いと思う。