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カテゴリ:幕末 > 幕府

1: 名無しさん 2017/10/14(土) 19:37:56.54 _USER9
「大政奉還」克明に記録-「慶喜は大広間で各藩重臣に表明した」に非ず、参加者自筆の記録を初確認 二条城伝達から150年

江戸時代最後の将軍、徳川慶喜が京都・二条城で大政奉還の意向を各藩の重臣に伝えた際、越後新発田藩の家臣が経緯を克明に記録していたことが仏教大の青山忠正教授(明治維新政治史)の調査で判明した。各藩への伝達は150年前の慶応3(1867)年10月13日。当日の参加者による自筆の記録が確認されたのは初めてという。

■おなじみの絵の構図は「嘘」だった…

 文書を残したのは新発田藩の京都留守居役だった寺田喜三郎。慶喜が朝廷へ提出する上表文の草案を書き写すなどしていた。青山教授は昨年、仏教大図書館所蔵の「寺田家文書」から大政奉還時の記述を発見。今年3月に論文を発表した。

 文書によると、当日に二条城へ集められたのは約40藩の重臣50人ほど。一同が二の丸大広間に詰めていると老中・板倉勝静が出座し「書付3通を渡すので考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞き遊ばされる」などと説明した。

 江戸時代最後の将軍、徳川慶喜が京都・二条城で大政奉還の意向を各藩の重臣に伝えた際、越後新発田藩の家臣が経緯を克明に記録していたことが仏教大の青山忠正教授(明治維新政治史)の調査で判明した。各藩への伝達は150年前の慶応3(1867)年10月13日。当日の参加者による自筆の記録が確認されたのは初めてという。

■おなじみの絵の構図は「嘘」だった…

教科書でおなじみの邨田丹陵の「大政奉還」(明治神宮外苑、聖徳記念絵画館蔵)
no title


 文書を残したのは新発田藩の京都留守居役だった寺田喜三郎。慶喜が朝廷へ提出する上表文の草案を書き写すなどしていた。青山教授は昨年、仏教大図書館所蔵の「寺田家文書」から大政奉還時の記述を発見。今年3月に論文を発表した。

 文書によると、当日に二条城へ集められたのは約40藩の重臣50人ほど。一同が二の丸大広間に詰めていると老中・板倉勝静が出座し「書付3通を渡すので考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞き遊ばされる」などと説明した。

 大広間では薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人が残り、慶喜と面会することになったが、寺田家文書にも「居残之分」として6人の名前があった。

 青山教授は「3通の書付が渡されたことが新たに分かった。多くの各藩重臣がそろった大広間に慶喜が現れ大政奉還を表明したと誤解している人もいるかもしれないが、慶喜が大勢の前には出座していないことも明確になった」と話す。

http://www.sankei.com/west/news/171013/wst1710130017-n1.html


5: 名無しさん 2017/10/14(土) 19:43:48.58 
その日記の信ぴょう性は? 


17: 名無しさん 2017/10/14(土) 19:55:37.81 
あーわかる 
こんな絵にかいたような構図絶対にないと思ったわ 

54: 名無しさん 2017/10/14(土) 20:35:47.12
この絵好きなんだけどな。 
2列目のふたりが顔見合わせてヒソヒソ話。 
はさまれた人は当惑気味か。 

3: 名無しさん 2017/10/14(土) 19:41:56.79 
これは50人が大勢と呼べるのかどうか?の争いになるのか? 

80: 名無しさん 2017/10/14(土) 21:24:24.54 
>>3 
50人の前じゃなくて6人の前に出てきた。 

寿司でも焼肉でも、50人前は食えないが6人前ならなんとか・・・ ということだろう。 

90: 名無しさん 2017/10/14(土) 21:35:23.00 
>>80 
なんじゃ、そら!?w 

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1: 幕末まとめ 2017/09/26(火) 11:57:59.13 _USER9
1

江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の直系のひ孫に当たる徳川慶朝(とくがわ・よしとも)さんが25日午前5時12分、心筋梗塞のため、水戸市内の病院で死去した。67歳。自宅はひたちなか市金上。通夜や葬儀は親族のみで執り行う。後日、お別れ会を検討している。

静岡県生まれ。カメラマンや大学講師として活躍した。2007年にひたちなか市に自宅を建てて移り住んだ後は、本県の風景などをテーマにした写真展を開いた。同市内のコーヒー店と連携し、自身が焙煎した「徳川将軍珈琲」を販売するなど、コーヒー研究家としても知られた。

9/26(火) 10:56配信
茨城新聞社
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170926-00000010-ibaraki-l08
48: 幕末まとめ 2017/09/26(火) 12:11:08.28
若いな 
合掌 

306: 幕末まとめ 2017/09/26(火) 12:53:33.25
これで旧公爵家の徳川慶喜家は絶家、断絶です。 

334: 幕末まとめ 2017/09/26(火) 12:58:29.85 
>>306 
そうぎょういまだならず 
徳川慶朝ついにいく… 
徳川家の一族は滅亡しました 

375: 幕末まとめ 2017/09/26(火) 13:05:42.29 
>>334 
徳川宗家(公爵)はちゃんとあるけど、 
ここも跡取り息子の奥さんがベトナム人で子無し、 
養子を迎えるのではないかと言われているね。 

そもそも現当主も会津松平家からの養子だし。 

655: 幕末まとめ 2017/09/26(火) 14:17:53.33
世が世なら日本の頂点にクンリンしたかも知れない人 
皇族よりも上に居たかも知れない人。 

今の世では皇族の眞子と結婚する小室圭よりも下 


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1: 幕末まとめ 2017/06/22(木) 13:18:40.55 _USER9
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隕石に含まれる鉄を使って明治時代に作られた希少な日本刀「流星刀」が、小樽市の龍宮神社に奉納された。

流星刀は、旧幕臣で北海道開拓にも貢献した榎本武揚(1836~1908年)が私財を投じて作らせた刃渡り約19センチの短刀だ。
家宝として大切に保管してきた、ひ孫の隆充さん(82)(東京都在住)が、武揚が創建した同神社に託すことにした。

科学技術に通じていた武揚はロシア公使在任中、同国で隕石で作った刀を見る機会があり、自分も作ってみようと、富山県で発見された隕石を購入。
依頼を受けた刀工が1897年(明治30年)、隕石から鉄を取り出し、大小計5本の刀を作った。1本は皇室にも献上されたという。武揚はこの件を論文にまとめ、学術誌に寄稿している。

流星刀は20日に奉納され、本間公祐宮司(50)は「榎本公の命をお預かりするつもりで、大切に保管したい」と語り、一般公開は行わないという。

奉納された流星刀(小樽市・龍宮神社で)

http://www.yomiuri.co.jp/national/20170622-OYT1T50008.html
2017年06月22日 07時55分
51: 幕末まとめ 2017/06/22(木) 13:55:32.68 
>>1 
ちっさ・・・ 

おれの股間の刀は大きくて切れ味鋭いのに 


96: 幕末まとめ 2017/06/22(木) 14:45:20.55 
>>1 
なんかスゲー 


14: 幕末まとめ 2017/06/22(木) 13:26:46.90 
>>1 
台座もピカピカ☆彡 
かっこいい 


138: 幕末まとめ 2017/06/22(木) 15:40:55.30 
>>1 
なんか中二病ラノベに出て来そうな陳腐アイテム 
仮に今一般公開されても大半の見物客( ´_ゝ`)フーン な反応かもね 


141: 幕末まとめ 2017/06/22(木) 16:00:23.34 
>>138 
え、みたいよ。 
榎本さんが隕石で刀作った話は有名だし、珍しい刀。 
ほんとは触ったり、叩いた時の音とかも知りたいし、斬れ味とかも知りたい。 

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1: 幕末まとめ 2017/05/13(土)19:30:45
大中黒旗
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いまの日章旗と比べてどうや?
12: 幕末まとめ 2017/05/13(土)19:32:48 
よわそう 

11: 幕末まとめ 2017/05/13(土)19:32:42 
エストニアかな? 

10: 幕末まとめ 2017/05/13(土)19:32:40 
なんかドイツの諸公国にありそう 

3: 幕末まとめ 2017/05/13(土)19:31:18 
葬式会場みたい 

引用元: ・徳川幕府が考案した日本国旗ってどう思う?

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1: 名無しさん 2017/02/12(日) 23:43:18.90 _USER
徳川宗家18代当主 徳川恒孝(とくがわ・つねなり)さん/1940年、東京生まれ。学習院大学卒業後、日本郵船に入社し、副社長などを歴任。2003年、徳川記念財団を設立し、理事長に就任(撮影/写真部・長谷川唯)
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 薩長同盟、坂本龍馬の船中八策、土佐藩主の山内容堂が徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜へ出した建白書、そして大政奉還、龍馬暗殺……。2017年で大政奉還から150年。幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、徳川宗家18代当主・徳川恒孝さんだ。

 *  *  *

 大政奉還として徳川家が天皇家に政権をお戻ししたのは、徳川幕府に大きな問題があったり、政権維持に限界があったりしたからではないと考えています。

 当時、日本を取り巻く外国からさまざまな圧力がかかっていました。その流れに任せてそれぞれの藩が圧力をかける国に個別に対応していたら、日本は分断されていたかもしれません。

 そこでそれぞれの藩が領内を支配する幕藩体制ではやっていけないと幕府は判断したのです。

 徳川家は幕府開府以来、長く天皇家を非常に大切にしてきましたので、ここで天皇家に政権をお戻しして、天皇を中心に今一度日本を統一すべきだと考えたのです。

 さらに徳川幕府は常に海外の情報を得ていました。特に幕末にかけては詳細な情報が幕府に入ってきて、世界の情勢は承知していたのです。イギリスの軍艦が近くにいるとか、アメリカの戦艦が日本に向かっているなど把握していました。そこで世界を見て、もう二度と戦乱の世にしてはならないと考え、大政奉還という決断をしました。

 江戸幕府を起こした家康は常に平和を願い、それを実現させた人です。家康の前の時代、豊臣秀吉は朝鮮へ2度も兵を出しました。 しかし、徳川の世になると朝鮮をはじめとした外国を攻めることはなくなりました。それどころか、朝鮮通信使が再開され友好な関係を築きました。幕府の将軍の代替わりや世継ぎが生まれるたびに朝鮮から使節団が江戸城にいる将軍に謁見にやってきていました。

 ただ、これは徳川家からの見方で、向こうの方々に言わせると、今度の将軍がまた秀吉のような人だったら危ないと、警戒のために将軍の顔を見に来ていたというようです。それで今度の将軍は穏やかでこちらに戦争をしかけてくるようなことはないと安心して帰ったそうです。

 そしてその情報は朝鮮から清の都・北京に伝えられ、今度の将軍も大丈夫だと胸をなでおろしたといいます。それだけ諸国との関係はよかったのです。

 ただ幕末から大政奉還にかけて残念なのは井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたことです。井伊直弼は海外の状況を鑑み、修好通商条約を締結し、日本を開くことを進めていました。だからあのとき直弼が殺されなかったら、徳川幕府が新たな日本をつくっていったでしょうね。

 徳川政権であったら平和一本で、その後の政府がとったような軍国主義政策はとらなかったに違いありません。明治新政府では征韓論が持ち上がり、その後も日清戦争、日露戦争が起きました。明治以降の歴史はご存じのとおりですね。

 明治の世になって諸藩の大名の子息の多くは海外に留学しました。そしてその人たちは海外の情報や知識を身に着け、明治以降の政府に重用されていきます。

 また、宮内省が大名家同士の婚姻を進めていきました。戊辰戦争で敵対した人の子孫を結びつけたり、かつて、あまり関係がよくなかったという同士の婚姻を決めたりしました。そうすることでそれぞれの家が背負ってきた変なわだかまりはなくなりました。

 大政奉還後、徳川幕府の幕臣が明治政府を支えたり、その後、全国にあった藩の大名の子孫の方々が地域のお祭りに参加して祭りを盛り上げたりしています。かつての殿様の子孫は地域活性化に協力しているといえるでしょう。

 そういう意味でも徳川時代が分断され明治時代になったのではなく、その意志を受け継ぎ、継続しているといってもいいかもしれません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)

http://dot.asahi.com/wa/2017020900090.html
65: 名無しさん 2017/02/13(月) 11:28:18.92 
家康の肖像画に似てるなぁ。 

2: 名無しさん 2017/02/12(日) 23:49:23.61 
>>1 
大政奉還と明治維新で悔しいです 

ってだけやん。素直にそれだけ言えよ、 

たまたま関ヶ原で勝っただけの分際で。 

77: 名無しさん 2017/02/13(月) 15:22:41.20 
>>2 

黙れ小童!


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