1: 幕末まとめ 2018/01/02(火) 10:21:30.14 _USER9
260年あまりにわたった徳川幕府の世に終わりを告げ、明治維新に向かう戊(ぼ)辰(しん)戦争の緒戦となった鳥羽伏見の戦いが起きたのは、大政奉還翌年の慶応4(1868)年1月。今年の正月、日本史の転換点からちょうど150年の時が流れる。近代国家建設を目指した新政府軍と旧幕府軍がにらみあった激戦の地(現・京都市南区、伏見区)は今、どのように変化し、痕跡を残しているのか。霊山歴史館(同市東山区)の木村幸比古(さちひこ)副館長(69)とともに訪ね歩いた。(池田祥子)
■伏見
「明治維新は、王政復古の大号令と、段階的に新国家像を描きながら進んだ改革。戦いは日本の平定に必要な前哨戦だった」。当時の事情に詳しい木村氏が、改めて鳥羽伏見の戦いの意義を語った。
正月早々4日間にわたった戦いは、鳥羽と伏見の2つの地が舞台となった。城下町として栄えた伏見では、御香宮(ごこうのみや)神社に陣取る薩摩軍と、南約50メートルの伏見奉行所に本陣を置く旧幕府軍がにらみ合った。
伏見の戦の端緒は、1月3日、北西約3キロの鳥羽・小枝橋で薩摩兵が放った1発の銃砲だった。奉行所にいた旧幕府方の新選組副長、土方歳三も銃声と閃光(せんこう)を確認したという。火ぶたが切られ、激戦が続いたが、薩摩軍が撃った砲弾が奉行所の火薬庫に命中し、大爆発した。
この砲弾が放たれたのは、同神社東側の高台。眼下には現在マンションが立ち並んでおり、奉行所があった場所は視界から遮られているが、木村氏は「かつてはしっかりと奉行所が見渡せたはずだ」と思い巡らせる。広大な奉行所跡は明治以降、旧陸軍が所有し、現在は市営桃陵(とうりょう)団地に。敷地からは薩摩軍のものとみられる砲弾も見つかった。
近くの料亭「魚三楼(うおさぶろう)」の表の格子には、生々しい当時の銃撃戦の弾痕がある。この戦乱で伏見の街の南半分が焼失したが、この店は運良く免れ、同神社の杜とともに往事をしのばせる。
4日、明治天皇の命令を受けた仁和寺宮嘉彰親王が征東大将軍になり、5日に新政府軍は「錦の御旗」を掲げた。旧幕府軍は兵力では圧倒していたが、たちまち「賊軍」となり、勝負は決した。
「新政府軍だけでなく、徳川慶喜も、おそらく大政奉還の先に新たな国家を見据えていただろう」。木村氏はそう推察し「世界地図を念頭に新しい国を生み出すために、明治維新は避けては通れない道だった」と語った。
■鳥羽
鳥羽の戦いは、城南宮周辺で起こった。木村氏は、境内にある文久元(1861)年建立の石造りの鳥居を見上げ「戦の一部始終を見ていただろう」と思いをはせた。
慶応4年1月3日、新政府軍は城南宮から小枝橋に続く参道に陣を構え、旧幕府軍と長時間対峙(たいじ)した。
突如、小枝橋で薩摩兵が挑発のため撃った一発で戦いの幕は上がった。
〈鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりも嬉しかりし〉
北に約3キロ離れた薩摩軍の本陣、東寺(南区)の五重塔から遠眼鏡で状況を見守っていた総指揮官の西郷隆盛は喜んだという。「倒幕が目的だった西郷としては、戦が勃発したことで旧幕府軍を朝敵として討てるという大義名分ができた」。木村氏が説明する。
城南宮の西350メートルの小枝橋周辺。木村氏によると、戦後は田畑が多かったが、現在は住宅や工場が立ち並び、西郷がいた五重塔も見えない。150年前の記憶は、小枝橋近くと鳥羽離宮跡公園にある石碑のみに刻まれている。
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鳥羽伏見の戦い 王政復古の大号令の後、将軍家の領地返納を強行採決した薩長両藩に対し旧幕府側が1万5千人で挙兵。大坂から京に進攻し、両藩兵ら4500人が迎え撃った。慶応4年1月3日、鳥羽と伏見で衝突したが、「官軍」となった新政府軍が旧幕府軍を圧倒し、6日に戦が終わり、徳川慶喜は江戸へ逃れた。
http://www.sankei.com/west/news/180102/wst1801020009-n1.html