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幕末に脱藩して戦った"大名" 林忠崇って知ってる?
1: 名無しさん 投稿日:2014/04/28(月) 19:33:49.40
(1)幕末、木更津に脱藩して戦った大名がいた?
高台に建つ請西藩真武根陣屋跡の石碑。若き藩主、林忠崇は脱藩し、戦った=千葉県木更津市請西
激動の幕末、脱藩して戦った大名が木更津にいたらしい。脱藩とは、志を果たすために藩の束縛を断ち切ること。なぜ、藩主自ら…。
伝説を追ってみよう。JR内房線に乗り、木更津市へ向かう。市郷土博物館金のすずの学芸員、稲葉昭智さん(50)に聞いてみた。
「はい。脱藩して、命がけで戦った殿様がいます。世の中にこういう人物がいてよかった」
その名は、請西(じょうざい)藩(木更津)藩主、林忠崇(ただたか)。
慶応4(1868)年、新政府軍が江戸に進軍してきた。諸藩が恭順の意を表すなか、林忠崇は決断した。徳川家に忠義を尽くすため、戦う-と。
若き藩主は脱藩した。徳川家や請西藩、領民が後難を受けないようにとの配慮からとみられる。
請西藩は1万石の小藩だった。なぜ、強大な新政府軍に立ち向かおうとしたのか。素朴な疑問がわく。稲葉学芸員が解説する。
「徳川将軍家には『献兎賜杯(けんとしはい)』という正月の儀式があり、
林家が兎を献上していました。元旦、将軍は兎汁を食べ、一番先に林家当主へ御酒を賜(たまわ)ったのです」
この儀式は故事に基づく。徳川家康の先祖が信州を流浪していた。寒い師走。
林家の先祖の屋敷を訪れた。当主は雪の中、猟に出て兎を捕らえた。
兎汁にしてふるまい、正月を賀した。徳川家はその後栄え、儀式として受け継がれていったという。
徳川家と林家は特別な関係で結ばれていたのだ。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140428/chb14042807000001-n1.htm
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幕末・下関戦争の戦利品として「渡英」の長州砲、萩に140年ぶり里帰りへ
1: 名無しさん 投稿日:2008/05/22(木) 01:47:41
幕末の1864(元治元)年、英・仏・オランダ・米の四国連合艦隊に長州藩が敗れ
た下関戦争の戦利品としてイギリスが持ち帰った長州砲1門が、6月下旬にも製造され
た山口県萩市に里帰りする見通しとなった。明治維新140年記念事業の一環として
萩市が企画したもので、1年間の貸与を受けて萩博物館に展示する。所蔵するイギリス
王立大砲博物館はすでに荷造りを終え、今月中に船積みする方向で手続きを進めている
という。
藩の鋳物師(いもじ)の郡司喜平治が、1844年に萩・松本の郡司鋳造所で作った
荻野流一貫目青銅砲(砲身長185.9センチ、口径8.8センチ、重さ1トン)の一
つ。伝統的な和式大砲で、一貫目玉(3.75キロ)を発射できる。戦争に備えて関門
海峡の下関側に配置されたが、敗戦で根こそぎ持ち去られるか廃棄された。
フランス軍が持ち帰った砲はその後、下関市立長府博物館に長期貸与、展示されてい
るが、イギリス軍が持ち帰った砲はロンドン郊外の大砲博物館で展示されてきた。萩市
民の間から里帰りを望む声が上がり、市が外務省を通じて交渉、今年に入って話がまと
まった。
萩市側は、受け入れ団体として長州砲里帰り実行委員会(会長、野村興児市長)を結
成。最大400万円かかる費用は、観光客らの寄付で街づくりを行っているワンコイン
トラスト委員会に助成を申請している。
萩市は「下関戦争の敗戦は明治維新史上の大きなターニングポイント。その大砲が地
元に帰ることは全国的な話題になる」として、観光客増にも期待している。
■ソース(朝日新聞)
http://www.asahi.com/national/update/0521/SEB200805210001.html