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カテゴリ:幕末 > 議論

1: 幕末まとめ 2018/05/05(土) 09:34:42.52 _USER9
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明治維新の立役者である薩摩藩の大久保利通の没後140年の法要を、
西郷隆盛が眠る鹿児島市の墓地で催そうとした有志のグループが反発を受け、法要の名称などを変更していたことがわかった。

西郷と幼なじみだが、西南戦争で西郷を敗死させた大久保への風当たりは今も強い。
法要は西南戦争の戦没者を政府軍、薩摩軍問わず追悼するものとして、6日に開催される。

 大久保と西郷は同じ鹿児島・加治屋町の出身。徳川幕府を倒し、明治維新を成し遂げた2人だが、新政府の政策をめぐって対立。
1877年に薩軍を率いて反乱を起こした西郷を鎮圧した大久保の人気は、西郷に比べるといま一つだ。

 明治維新150周年の今年は、西南戦争の翌年に東京で暗殺された大久保の没後140年にもあたる。

 そこで、西郷らが葬られている同市の南洲墓地に昨年9月、
政府軍と薩軍を一緒に弔う慰霊塔を建立した有志の団体「西南之役官軍薩軍恩讐(おんしゅう)を越えての会」が、 大久保の命日である今月14日に近い6日に、「大久保利通公没140年法楽」を慰霊塔前で催そうと計画した。
同会の会長は、NHKの大河ドラマ「西郷どん」で時代考証を担当している鹿児島県立図書館の原口泉館長が務めている。

しかし、東京・上野の西郷像の清掃や西郷の研究活動などに取り組む市民グループ「敬天愛人フォーラム21」(東京)が、
「大久保は西郷を死地に追いやった人物」と反発。南洲墓地での大久保の法要を取りやめるよう求めた。
内弘志・代表世話役は「大久保は南洲墓地に葬られているわけでもない。賊軍の汚名を着たまま眠る人々や遺族の思いを考えてほしい」と話す。

 同会事務局を務める鹿児島市の大雄山南泉院の宮下亮善住職は「法要は大久保だけのためでなく、
官軍側、薩軍側の分け隔てなく平等に供養したいだけ」とするが、反発を受けて、法要の名称を「西南之役官軍薩軍恩讐を越えての法要」に変更。

予定していた原口会長の講演のタイトルも「明治維新と大久保甲東」から「大河ドラマの中の西郷と大久保」に変えた。
原口会長は「対立を深めるようなことは好ましくないと判断した」と話した。

 南洲墓地での法要には、西郷の子孫らを含めて110人ほどが出席する予定という。

http://news.livedoor.com/article/detail/14671364/

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1: 幕末まとめ 2018/02/05(月)15:14:01
どれもこれも、えぇ…ってなるような話ばかりや

6: 幕末まとめ 2018/02/05(月)15:19:53 
no title


薩摩流アメリカンフットボール 

20: 幕末まとめ 2018/02/05(月)15:33:37 
>>6
恐ろしすぎるやろ
こんなんに生け捕りにされたら死んでも死に切れん 

27: 幕末まとめ 2018/02/05(月)15:37:11 
>>6
これなんやバガボンド? 

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1: 幕末まとめ 2017/10/08(日) 06:47:52.37 _USER9
明治時代に創業し現在も存続する企業が占める割合は、1・3%の北陸が地域別で最も高いことが東京商工リサーチの調べで分かった。都道府県別では山形県の2・0%が最高だった。担当者は「伝統を重視する土地柄や堅実な地域性が背景にある」と分析している。

 明治元年から来年で150年となるのに合わせ、同社が約311万社の企業データベースを基に調査。各都道府県に本社を置く企業のうち、明治時代に創業した企業が占める割合を計算した。

 明治創業の企業は、全国で計2万1799社となり、全体の0・7%だった。北陸に現存する明治創業の企業は922社だった。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017100701001281.html
no title


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1: 幕末まとめ 2017/07/26(水) 14:57:49.28 BE:155743237-PLT(12000) ポイント特典
1
「幕末、最強の剣士」は結局のところ誰なのか「坂本龍馬、沖田総司、高杉晋作…」総合力は?
東洋経済 2017年07月26日

2017年6月、坂本龍馬が書いた直筆
手紙が新たに発見されました。

この手紙は、彼が暗殺される1年前の
慶応2年(1866年)に、兄・権平らに送ったものです。
手紙の前半には、その年の1月に遭遇した
「寺田屋での襲撃事件」が詳細に記載されています。

薩長同盟成立後、幕府は、これを仲介した龍馬を
指名手配し、潜伏先だった旅館「寺田屋」を襲撃しました。

このとき、数に勝る幕府の役人は、
龍馬を追い詰めながらも、
なかなか斬り込めませんでした。

それは、龍馬のもつ拳銃が脅威だったこともさることながら、
龍馬が「剣の達人」であるのを幕府側が知っていたからです。
終始尻込みした幕府の役人たちは、ついには彼を取り逃がしてしまいます。

幕末期には、龍馬をはじめ、新選組など
数多くの優れた剣士たちが各方面で活躍していましたが、
はたして誰がその中で「最も強かった」のでしょうか。

(後略)
http://toyokeizai.net/articles/-/180997
4: 幕末まとめ 2017/07/26(水) 15:00:44.91 
生き残った奴が最強、って事で 
斉藤と永倉 


6: 幕末まとめ 2017/07/26(水) 15:08:53.41 
新撰組はかなり過大評価されてるイメージしかない 


18: 幕末まとめ 2017/07/26(水) 15:20:27.83 
>>6 
弱かったら龍馬みたいに斬り殺されてる
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1: 名無しさん 2017/07/05(水) 14:31:31.20 _USER9
no title
公共交通機関が未発達だった1893(明治26)年4月、松江市の県第一尋常中学校(現・松江北高)が、徒歩を中心にした全行程約500キロの修学旅行を実施していた。
鳥取県米子市の地域文化研究誌「伯耆文化研究」がこのほど発行した第18号で、こんな事例を紹介している。
山陰では修学旅行の草分けとみられるが、124年前の生徒たちは現在では想像できないほどの健脚ぶりだったようだ。【小松原弘人】

伯耆文化研究会の理事で郷土史家の岩佐武彦さん(78)が、米子市立図書館と島根県立図書館(松江市)で山陰新聞(現・山陰中央新報)の記事「三道旅行記」を発見した。
三道は山陰道、山陽道、南海道を指しており、同行した記者が執筆して同紙で随時掲載された。岩佐さんは記事と自身の解説、行程図をまとめた「全行程500キロ 徒歩・川舟・汽船による修学旅行」を寄稿した。

岩佐さんや三道旅行記によると、修学旅行は4月5日から同15日までで、島根、鳥取、岡山、香川、広島県を巡った。
参加者は3~5年の生徒と教師の計81人。行程の約4分の1は汽船、川舟、鉄道を利用したが、残りは徒歩での移動だった。
記事では記者が見た当時の交通事情や世相、それぞれの地域の様子を詳細に記録している。

初日には鳥取、岡山県境にある残雪の四十曲峠(770メートル)を踏破しており、記事は「足の疲れがひどく、寒さも甚だしく、耐え難い」と苦労ぶりを記述。
岡山では市街地や医学校、紡績工場を、香川では屋島の源平合戦古戦場や高松城、金刀比羅宮など見学した。
紡績工場では「電灯こうこうとして輝き」「発電機あり」「大機械あり」と驚きが書かれている。深夜や未明に出発することもあった。
汽船で松江に帰った夜は、下級生らが拍手と歓声で出迎えたという。

当時の服装は、1903(明治36)年に修学旅行をした第二中学校(現・米子東高)の創立90周年記念誌にある「木綿の筒袖、はかま、制帽、脚半、草履、布鞄」に似ていたとみられる。
岩佐さんによると修学旅行は1892(明治25)年ごろから広まりだし、「当時、記者が同行するほど注目されていたが、現代とは全く趣が異なったようだ。記事も当時の社会をよく伝えており、貴重だ」と話している。

修学旅行の行程図=「伯耆文化研究」第18号から


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170705-00000014-mai-soci


31: 名無しさん 2017/07/05(水) 14:43:35.33 
>>1 
>記事は「足の疲れがひどく、寒さも甚だしく、耐え難い」と苦労ぶりを記述。  

当時の人間でも疲労困憊じゃねえか 


335: 名無しさん 2017/07/05(水) 17:39:23.09 
>>31 
初日は雪山登山だからな 
よーやるわ 


338: 名無しさん 2017/07/05(水) 17:41:30.09 
>>335 
大山山麓だから相当急峻だよ。仮に四国の剣山だったら死人出るな。 

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