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カテゴリ:幕末 > 議論

1: 幕末まとめ  2017/04/19(水)15:25:30 ID:???
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借りた幕末の屏風絵、変色させ返却…修復できず

 熊本市現代美術館は18日、高知県香南市の文化施設から借り受けた幕末の絵師金蔵きんぞう
(1812~76年)作の屏風絵びょうぶえ5点を誤って変色させ、完全に修復できないまま返却したと発表した。

 同館の指定管理者の熊本市美術文化振興財団は「できる限りの処置をしたが、元に戻らず、申し訳ない」としている。

続き 読売新聞・会員記事
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170419-OYT1T50037.html

2: 幕末まとめ  2017/04/19(水)15:30:12 
どーやって
変色させたんだ 日当たりの良いところで日晒し??? 

5: 幕末まとめ  2017/04/19(水)15:34:16 
日本中探せば、修復できる人間はいるはずだから、その修復代金を熊本が出すしかないな。 


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1: 幕末まとめ 2017/04/11(火) 09:25:39.39 _USER
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NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、
井伊直虎は、今川方から井伊家に入った井伊次郎だったと幕末に記した史料が新たに見つかり、
井伊美術館(京都市)が10日、発表した。
ドラマ上では、井伊直盛の娘「次郎法師」が直虎を名乗っているが、
同美術館は直虎・男説を補強する史料としている。


 昨年も、別史料から直虎は今川家重臣の息子・井伊次郎だったと発表していた。
同美術館によると、直虎の名前が書かれた文書は「次郎直虎」と書かれた
永禄11(1568)年の書状だけで、今回が2例目という。


 新史料は、井伊家の家臣に伝来した「河手家系譜」。
文政13(1830)年ごろにまとめられ、幕末に加筆された。
加筆部分で「井ノ直虎」は「次郎也」とあり、
「今川之物也」と説明。次郎法師は直盛の娘との記述もあった。


 永禄11年、徳川家康が井伊家の本拠地だった遠江(静岡県西部)に侵攻した際
「直虎は花沢(焼津市付近)に逃げる途中に討ち死にした」と最期の様子も記していた。


 大河ドラマの時代考証を務める小和田哲男静岡大名誉教授(戦国史)は
「幕末の二次史料ながら、河手家系譜の『この次郎は御家にあらず。今川のものなり』と、
『井ノ直虎』の横に朱字で『次郎也』とある部分は注目される。
史料紹介なり論文の形で公になった時点で検討したい」とコメントしている。

産経ニュース
http://www.sankei.com/life/news/170411/lif1704110008-n1.html
8: 幕末まとめ 2017/04/11(火) 09:34:59.83 
別にどっちでもいいけど 
一般論で言うなら300年後近い幕末の史料じゃ補強材料にならないのでは 

46: 幕末まとめ 2017/04/11(火) 15:53:11.17 
>>8 
それ言うなら直虎の存在なんて史料ほぼ皆無の妄想になってしまう 


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1: 幕末まとめ 2017/03/19(日) 05:16:22.41
すぐにオワコンになるなんて

81: 幕末まとめ 2017/03/19(日) 06:15:41.33 
勝海舟は英蘭辞典使って英語の勉強したらしいから 
いきなり英語を始めるよりアドバンテージはあったやろ 


7: 幕末まとめ 2017/03/19(日) 05:26:48.85 
大村益次郎やんけ 


21: 幕末まとめ 2017/03/19(日) 05:33:48.60 
>>7 
なお英語もあっという間にマスターした模様 ソースは福沢論吉 


61: 幕末まとめ 2017/03/19(日) 05:57:24.23 
>>7 
本人がオワコンになるの早すぎ 

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1: 名無しさん 2017/02/23(木) 20:59:04.78
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もちろん、歴史学者が書いた本じゃなくて専門外の人たちが書いた本ばかりなんだが
薩長は残虐なテロリストで明治維新は間違いだらけ、洗脳なんだとさ

納得いかん

2: 名無しさん 2017/02/23(木) 20:59:30.21 
残虐なのは確かだが、しゃーないだろ時代変えるためには 


19: 名無しさん 2017/02/23(木) 21:01:34.46 
原田伊織は幕末明治期の研究者にとっては一時期の江戸しぐさ並に叩かれてるな 
実際言ってる内容ひどすぎやししゃーない 


20: 名無しさん 2017/02/23(木) 21:01:39.25 
勝てば官軍 

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1: 名無しさん 2017/02/12(日) 23:43:18.90 _USER
徳川宗家18代当主 徳川恒孝(とくがわ・つねなり)さん/1940年、東京生まれ。学習院大学卒業後、日本郵船に入社し、副社長などを歴任。2003年、徳川記念財団を設立し、理事長に就任(撮影/写真部・長谷川唯)
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 薩長同盟、坂本龍馬の船中八策、土佐藩主の山内容堂が徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜へ出した建白書、そして大政奉還、龍馬暗殺……。2017年で大政奉還から150年。幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、徳川宗家18代当主・徳川恒孝さんだ。

 *  *  *

 大政奉還として徳川家が天皇家に政権をお戻ししたのは、徳川幕府に大きな問題があったり、政権維持に限界があったりしたからではないと考えています。

 当時、日本を取り巻く外国からさまざまな圧力がかかっていました。その流れに任せてそれぞれの藩が圧力をかける国に個別に対応していたら、日本は分断されていたかもしれません。

 そこでそれぞれの藩が領内を支配する幕藩体制ではやっていけないと幕府は判断したのです。

 徳川家は幕府開府以来、長く天皇家を非常に大切にしてきましたので、ここで天皇家に政権をお戻しして、天皇を中心に今一度日本を統一すべきだと考えたのです。

 さらに徳川幕府は常に海外の情報を得ていました。特に幕末にかけては詳細な情報が幕府に入ってきて、世界の情勢は承知していたのです。イギリスの軍艦が近くにいるとか、アメリカの戦艦が日本に向かっているなど把握していました。そこで世界を見て、もう二度と戦乱の世にしてはならないと考え、大政奉還という決断をしました。

 江戸幕府を起こした家康は常に平和を願い、それを実現させた人です。家康の前の時代、豊臣秀吉は朝鮮へ2度も兵を出しました。 しかし、徳川の世になると朝鮮をはじめとした外国を攻めることはなくなりました。それどころか、朝鮮通信使が再開され友好な関係を築きました。幕府の将軍の代替わりや世継ぎが生まれるたびに朝鮮から使節団が江戸城にいる将軍に謁見にやってきていました。

 ただ、これは徳川家からの見方で、向こうの方々に言わせると、今度の将軍がまた秀吉のような人だったら危ないと、警戒のために将軍の顔を見に来ていたというようです。それで今度の将軍は穏やかでこちらに戦争をしかけてくるようなことはないと安心して帰ったそうです。

 そしてその情報は朝鮮から清の都・北京に伝えられ、今度の将軍も大丈夫だと胸をなでおろしたといいます。それだけ諸国との関係はよかったのです。

 ただ幕末から大政奉還にかけて残念なのは井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたことです。井伊直弼は海外の状況を鑑み、修好通商条約を締結し、日本を開くことを進めていました。だからあのとき直弼が殺されなかったら、徳川幕府が新たな日本をつくっていったでしょうね。

 徳川政権であったら平和一本で、その後の政府がとったような軍国主義政策はとらなかったに違いありません。明治新政府では征韓論が持ち上がり、その後も日清戦争、日露戦争が起きました。明治以降の歴史はご存じのとおりですね。

 明治の世になって諸藩の大名の子息の多くは海外に留学しました。そしてその人たちは海外の情報や知識を身に着け、明治以降の政府に重用されていきます。

 また、宮内省が大名家同士の婚姻を進めていきました。戊辰戦争で敵対した人の子孫を結びつけたり、かつて、あまり関係がよくなかったという同士の婚姻を決めたりしました。そうすることでそれぞれの家が背負ってきた変なわだかまりはなくなりました。

 大政奉還後、徳川幕府の幕臣が明治政府を支えたり、その後、全国にあった藩の大名の子孫の方々が地域のお祭りに参加して祭りを盛り上げたりしています。かつての殿様の子孫は地域活性化に協力しているといえるでしょう。

 そういう意味でも徳川時代が分断され明治時代になったのではなく、その意志を受け継ぎ、継続しているといってもいいかもしれません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)

http://dot.asahi.com/wa/2017020900090.html
65: 名無しさん 2017/02/13(月) 11:28:18.92 
家康の肖像画に似てるなぁ。 

2: 名無しさん 2017/02/12(日) 23:49:23.61 
>>1 
大政奉還と明治維新で悔しいです 

ってだけやん。素直にそれだけ言えよ、 

たまたま関ヶ原で勝っただけの分際で。 

77: 名無しさん 2017/02/13(月) 15:22:41.20 
>>2 

黙れ小童!


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