幕末ちゃんねる

幕末史中心の2chまとめサイト

カテゴリ:幕末 > 議論

1: 名無しさん 2017/02/23(木) 20:59:04.78
56

もちろん、歴史学者が書いた本じゃなくて専門外の人たちが書いた本ばかりなんだが
薩長は残虐なテロリストで明治維新は間違いだらけ、洗脳なんだとさ

納得いかん

2: 名無しさん 2017/02/23(木) 20:59:30.21 
残虐なのは確かだが、しゃーないだろ時代変えるためには 


19: 名無しさん 2017/02/23(木) 21:01:34.46 
原田伊織は幕末明治期の研究者にとっては一時期の江戸しぐさ並に叩かれてるな 
実際言ってる内容ひどすぎやししゃーない 


20: 名無しさん 2017/02/23(木) 21:01:39.25 
勝てば官軍 

続きを読む

1: 名無しさん 2017/02/12(日) 23:43:18.90 _USER
徳川宗家18代当主 徳川恒孝(とくがわ・つねなり)さん/1940年、東京生まれ。学習院大学卒業後、日本郵船に入社し、副社長などを歴任。2003年、徳川記念財団を設立し、理事長に就任(撮影/写真部・長谷川唯)
no title


 薩長同盟、坂本龍馬の船中八策、土佐藩主の山内容堂が徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜へ出した建白書、そして大政奉還、龍馬暗殺……。2017年で大政奉還から150年。幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、徳川宗家18代当主・徳川恒孝さんだ。

 *  *  *

 大政奉還として徳川家が天皇家に政権をお戻ししたのは、徳川幕府に大きな問題があったり、政権維持に限界があったりしたからではないと考えています。

 当時、日本を取り巻く外国からさまざまな圧力がかかっていました。その流れに任せてそれぞれの藩が圧力をかける国に個別に対応していたら、日本は分断されていたかもしれません。

 そこでそれぞれの藩が領内を支配する幕藩体制ではやっていけないと幕府は判断したのです。

 徳川家は幕府開府以来、長く天皇家を非常に大切にしてきましたので、ここで天皇家に政権をお戻しして、天皇を中心に今一度日本を統一すべきだと考えたのです。

 さらに徳川幕府は常に海外の情報を得ていました。特に幕末にかけては詳細な情報が幕府に入ってきて、世界の情勢は承知していたのです。イギリスの軍艦が近くにいるとか、アメリカの戦艦が日本に向かっているなど把握していました。そこで世界を見て、もう二度と戦乱の世にしてはならないと考え、大政奉還という決断をしました。

 江戸幕府を起こした家康は常に平和を願い、それを実現させた人です。家康の前の時代、豊臣秀吉は朝鮮へ2度も兵を出しました。 しかし、徳川の世になると朝鮮をはじめとした外国を攻めることはなくなりました。それどころか、朝鮮通信使が再開され友好な関係を築きました。幕府の将軍の代替わりや世継ぎが生まれるたびに朝鮮から使節団が江戸城にいる将軍に謁見にやってきていました。

 ただ、これは徳川家からの見方で、向こうの方々に言わせると、今度の将軍がまた秀吉のような人だったら危ないと、警戒のために将軍の顔を見に来ていたというようです。それで今度の将軍は穏やかでこちらに戦争をしかけてくるようなことはないと安心して帰ったそうです。

 そしてその情報は朝鮮から清の都・北京に伝えられ、今度の将軍も大丈夫だと胸をなでおろしたといいます。それだけ諸国との関係はよかったのです。

 ただ幕末から大政奉還にかけて残念なのは井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたことです。井伊直弼は海外の状況を鑑み、修好通商条約を締結し、日本を開くことを進めていました。だからあのとき直弼が殺されなかったら、徳川幕府が新たな日本をつくっていったでしょうね。

 徳川政権であったら平和一本で、その後の政府がとったような軍国主義政策はとらなかったに違いありません。明治新政府では征韓論が持ち上がり、その後も日清戦争、日露戦争が起きました。明治以降の歴史はご存じのとおりですね。

 明治の世になって諸藩の大名の子息の多くは海外に留学しました。そしてその人たちは海外の情報や知識を身に着け、明治以降の政府に重用されていきます。

 また、宮内省が大名家同士の婚姻を進めていきました。戊辰戦争で敵対した人の子孫を結びつけたり、かつて、あまり関係がよくなかったという同士の婚姻を決めたりしました。そうすることでそれぞれの家が背負ってきた変なわだかまりはなくなりました。

 大政奉還後、徳川幕府の幕臣が明治政府を支えたり、その後、全国にあった藩の大名の子孫の方々が地域のお祭りに参加して祭りを盛り上げたりしています。かつての殿様の子孫は地域活性化に協力しているといえるでしょう。

 そういう意味でも徳川時代が分断され明治時代になったのではなく、その意志を受け継ぎ、継続しているといってもいいかもしれません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)

http://dot.asahi.com/wa/2017020900090.html
65: 名無しさん 2017/02/13(月) 11:28:18.92 
家康の肖像画に似てるなぁ。 

2: 名無しさん 2017/02/12(日) 23:49:23.61 
>>1 
大政奉還と明治維新で悔しいです 

ってだけやん。素直にそれだけ言えよ、 

たまたま関ヶ原で勝っただけの分際で。 

77: 名無しさん 2017/02/13(月) 15:22:41.20 
>>2 

黙れ小童!


続きを読む

main3
1: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 13:16:59.09 BE:565421181-PLT(12000) ポイント特典
明治150年 歴史に向きあう誠実さ


来年は明治元年から数えて満150年にあたる。

 政府は記念の施策を行うことを決め、明治期に関する文書・写真の収集とデジタル化、活躍した若者や女性の
発掘、ゆかりのある建築物の公開などにとり組むよう、各省庁に指示した。

 気になるのは、全体をつらぬく礼賛ムードだ。

 政府は「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」とうたう。「明治の精神」とは何か。列記されているのは機会の
平等、チャレンジ精神、和魂洋才だ。

一方で富国強兵の国策の下、生命を失い人権を侵された内外の大勢の市民、破壊された自然、失われた文化が
あるのも事実だ。
 歴史の光の部分のみ見て、影から目を背けるのはごまかしであり、知的退廃に他ならない。
「坂の上の雲」を追いかけ、近代化をなしとげた歩みだけが強調されている。

 関連で注意すべき動きもある。文化の日を「明治の日」に改称させようという運動だ。

こうした経緯を踏まえず、「明治の栄光」を訴えるふるまいには、時代錯誤の一言で片づけられない危うさを感じる。

http://www.asahi.com/paper/editorial2.html
37: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 13:42:55.21 
>>1 
明治以後近代制度を取り入れ日露戦争の勝利があったからこそ紆余曲折はあったにしろ日本とアジア諸国はここまでなれたんだがな 
明治維新を否定する事は黄色人種の民族自決を否定するのと同じ 

48: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 13:52:25.42 
>>1 
> 関連で注意すべき動きもある。文化の日を「明治の日」に改称させようという運動だ 

どうでもいいけれど 
文化の日は元々明治節(つうか天長節←明治天皇の誕生日)であって 
憲法とか文化とは何の関係もない 

67: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 14:10:04.21 
>>48 
多分、知らなかったんだろうね 
すこし調べれば理由わかるのに


続きを読む

1: 名無しさん 2017/02/01(水) 05:21:05.54 _USER9
子供がいないことを理由にした離縁状(群馬県立文書館提供)
no title


 江戸時代、子供がいないことを理由に夫が妻に渡した「三行半(みくだりはん)」(離縁状)が、三行半研究の第一人者の群馬県太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長、高木侃(ただし)さん(75)の調査で初めて見つかった。三行半は離縁理由を記載しない例が多く、高木さんは「極めて貴重な史料だ」と驚いている。

 この三行半は安政5(1858)年7月、道之助がおげんに宛てたもの。文中「未ダ一子もこれなく(中略)今般利(離)縁致候」と記載されている。

 高木さんの研究によると、江戸時代の離縁状は離縁する理由を書いていないものが最も多く、次いで、現代の一身上の都合に当たる「我等勝手」など抽象的表現にとどまっているのが一般的。親権の所在が記載されているケースはまれにあるという。

 この三行半は高木さんが調査中に太田市内の旧家で偶然見つけたもので、群馬県立文書館(前橋市)に寄託された。

 高木さんはこれまで、約1300通の三行半を調査している。

 「夫がよほど、子供を欲しかったのかもしれない」と話している。

http://www.sankei.com/life/news/170129/lif1701290011-n1.html

2: 名無しさん 2017/02/01(水) 05:22:29.96 
石女は離縁されて当然 


95: 名無しさん 2017/02/01(水) 09:46:50.06 
>>2 
夫の方に原因がある場合も多いよ 
豊臣秀吉みたいに 


101: 名無しさん 2017/02/01(水) 11:40:43.85 
>>2 
いまでこそ男性側にも不妊の原因があることかわかったが 
当時は女のせいだと思われていたからな
続きを読む

1: 幕末まとめ  2016/06/18(土) 13:30:50.21 _USER9
1

 幕末の京都で、長州や土佐などの過激派志士が襲撃された「池田屋事件」の際、
2階に踏み込んだ新選組局長の近藤勇が発した第一声は、将軍や主君の意思であることを示す「御上意」だった可能性があることが18日、
宮内庁宮内公文書館に保管されている会津松平家の資料で分かった。

 ドラマなどでは「手向かいすれば容赦なく斬る」と警告する場面が多いが、今回の資料にこの言葉はなかった。
これまで知られていなかった新たな言葉の登場は、歴史ファンの関心を呼びそうだ。

 資料は「維新階梯(かいてい)雑誌」で、会津藩主松平容保が京都守護職になった1862年以降の出来事を明治時代に編さん。
一部が引用されるなどして存在は知られていたが、31冊が同館にそろっているのを埼玉県の歴史研究家、伊藤哲也さん(47)が確認した。

 64年の池田屋の場面では、近藤が亭主とやりとりした後、2階に上がると6、7人が車座になっていたと記述。
「座中を割って奥へ赴けば、一同(刀を)抜いて斬り掛かってきた」「此の方御上意と大音声で(叫んで)踏み込んだ」と続く。
後に近藤が「(相手は)御上意に恐れをなした様子。いまだ徳川のご威光は尽きず」と述懐したとも書かれている。

 これまでは、1階にいた幹部隊士で、大正まで生きた永倉新八の回顧録から、近藤はまず「手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨てる」と警告したとされてきた。

 新選組はこのころまだ目立った功績がなく、近藤は攘夷を実行しない幕府に失望し、解散の意向を伝えるなど進退に悩んでいた。
しかし事件後、幕府を支える傾向を強めていったとされる。

 新選組研究の第一人者として知られる菊地明さんは「上意という言葉は初めて知った。『手向かい致せば』も言っていたとしても矛盾はしないと思う。
予想外に相手がひるんだので将軍の威光を見直し、あくまで徳川が力を持つことで攘夷を目指す思想につながったのかもしれない。膨大な資料は大きな価値がある」としている。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG17HAK_Y6A610C1CR0000/


4: 幕末まとめ  2016/06/18(土) 13:32:52.52
か、階段落ちは? 
階段落ちは有ったの?

422: 幕末まとめ  2016/06/19(日) 01:25:29.17
>>4 
ぎ・・銀ちゃん・・・

21: 幕末まとめ  2016/06/18(土) 13:45:32.15
近藤や永倉って、土方部隊が遅かったらここで死んでたんだよね

24: 幕末まとめ  2016/06/18(土) 13:51:08.55
>>21 
そうでもない

371: 幕末まとめ  2016/06/19(日) 00:22:43.34
>>21 
それは無い。 
土方隊が斬ったのはその場から逃げ出そうとした連中。


続きを読む

↑このページのトップヘ