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カテゴリ: 関ヶ原の戦い〜

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1: 名無しさん 2016/12/24(土) 08:28:40.93 _USER9
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161224-00010000-nishinp-soci

幸村は生き延びて薩摩に逃げていた? 大坂夏の陣で死んだとされる
真田幸村(信繁)が実は、豊臣秀頼を守って、鹿児島県南九州市に
移り住んだという伝説が地元で言い伝えられている。18日に最終回を
迎えた幸村が主人公のNHK大河ドラマ「真田丸」により、幸村の墓と
される同市の石塔を訪れる人は増えており、地元は伝説にあやかった
地域おこしに取り組んでいる。

幸村の薩摩落ち伝説は京童たちが歌った「花の様(やう)なる秀頼様を、
鬼のやうなる真田がつれて、退(の)きものいたよ加護島(かごしま)へ」
との歌で有名になったといわれる。伝説の地は、同市頴娃(えい)町の
雪丸集落。南国鹿児島で雪がつく地名は珍しく、幸村がなまったと伝わる。

墓とされる石塔は、山中にあり、墓石は島津家が「特別な石材」とした
山川石製。文字や模様は刻まれていない。墓に通じる坂道は地元で
「とんどん坂(殿どの坂)」と言われ、雪丸自治会の雪丸重光会長(68)は
「親から近づかないように言いつけられていた」と話す。

墓には丸い小石がたくさん供えられている。これは幸村の子を
身ごもった女性を徳川の追っ手から守るため同町の大川地区に嫁がせ、
その子孫が墓参りの際に小石をさい銭代わりに置いたとされる。
その女性が産んだ男の子は、真田の2文字の間に江という字を挟んだ
「真江田(まえだ)」の姓を名乗った。真江田家の墓には真田の家紋
「六文銭」が刻まれている。

「泣きました。丸ロス、1年間楽しかった」

集落の有志は昨年11月、ドラマ放送の開始(今年1月)を控え、墓の
見学者をもてなそうと「雪丸幸せ村プロジェクト」と銘打った地域おこしを開始。
駐車場を整備し、参道入り口につえを収める小屋を建設、山道にいすや
手すりを設置した。

今年に入ってからは「ゆきまるくん」と名付けた武将キャラクターを制作。
道案内の看板を作ったり、地元特産の茶を使った焼き菓子や六文銭クッキーを
開発したりした。5月には大河ドラマで主役を演じた堺雅人さん夫妻が訪れ、
集落の商店でクッキーなどを購入したという。プロジェクトリーダーの
田原三知恵さん(48)は「世代を超えた関係が築け、集落が元気になった」と語る。

参道の入り口に4月から置いているサイン帳には今月20日現在、国内外から
1466人の書き込みがある。最終回翌日の19日に訪れた女性は「泣きました。
丸ロス、1年間楽しかった」と記した。20日に東京から訪れた加藤孝伸さん(51)、
繭美さん(46)夫妻は「ここが幸村の最期の地であってほしい」と話した。

幸村の薩摩落ち伝説。多くの幸村ファンの歴史ロマンを駆り立てそうだ。
725: 名無しさん 2016/12/24(土) 20:25:09.4
ロマンだなぁw 
この物語で番外編を見てみたい 
寺で死んだと見せかけて真田とサスケとキリが秀頼を連れ出して一路鹿児島へ


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1: DQN ★ 投稿日:2016/05/02(月) 19:36:25.90
「士農工商」という言葉が教科書から削除されているとネット上で話題となっている。

もともと身分を表す言葉ではなかった?
かつて、日本の教科書や書籍などには、江戸時代の身分制度を表す言葉として「士農工
商」という言葉が載っていた。

最近の研究でこの「士農工商」という身分制度が存在しないことが明らかになり、今は
教科書からも削除されているとネット上に投稿され、衝撃が広がっている。

「士農工商」という言葉は、もともと中国の古典で「すべての職業」「民衆一般」とい
う意味で使われていたという。

2000年頃から教科書から消えた
「士農工商」という言葉は、いつ頃教科書から消えたのだろうか?

東京書籍のHPには、近世諸身分を単純に「士農工商」とする捉え方はなかったこと
や、武士以外の身分については上下・支配関係はないといった見解から、平成12年度か
ら「士農工商」という記述をしなくなったと書かれている。

また、士農工商を使わなくなったことに関連して、平成17年度の教科書からは「四民平
等」の用語も使用しなくなったという。

ネット上に驚く声が続々
「士農工商」という身分制度が今の教科書には載っていないという投稿を受けて、ネッ
ト上には反響が殺到。

驚く声が続々と投稿されている。

他にも教科書には多くの変更点が
教科書の記述が変更されたのは、「士農工商」だけではない。

以前は「村人」と記述されていた身分は、平成9年頃から「百姓」と表記されるよう
に。「百姓」は「一般の人々」という意味で、百姓身分には漁業や林業に従事する人々
も含まれるという。

十七条の憲法や冠位十二階を制定したとされていた「聖徳太子」は近年、「聖徳太子
(厩戸王子)」や「厩戸王子」と表記。

「いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせが有名な鎌倉幕府の成立
は、近年1192年でないという説が有力になっており、現在では「いい箱(1185年)つ
くろう~」という語呂合わせが使われている。

「島原の乱」と言われていた大規模な百姓一揆は、近年「島原・天草一揆」と言われる
ように。

かつては「マニュファクチュア」と表記されていた「工場制手工業」も、最近では日本
をイギリスと結び付けて考える必要性が薄れてきたことから、教科書に表記されないよ
うになった。

他にも、日露和親条約が結ばれた年号が1854年から1855年に変わったり、ルーズベル
ト大統領が「ローズベルト」と表記されるようになった。

IRORIO:http://irorio.jp/nagasawamaki/20160502/318698/


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1: 幕末まとめ  投稿日:2016/03/17(木) 13:00:49.96
 誰もが名前を知っている歴史上の偉人たち。でも、彼らの懐事情となると知っている人はそう多くはない。
『日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情』(角川ソフィア文庫)の著者である山口博・富山大学名誉教授、
そして歴史研究家で文教大学付属高等学校教諭の河合敦氏の協力のもと、「偉人たちの年収ランキング」を作成。
一番おカネ持ちの英雄は“あの人”だった! ここではあの偉人25人を紹介する。その前に、今回の算出条件をみてみよう。

●時代を代表する為政者、武将、大名、軍人、政治家らを中心に、山口博・富山大学名誉教授、河合敦・文教大学付属高等学校教諭の協力のもと資料が残っている人物を優先して算出。
●大名の場合、総石高の半分を農民に、残り半分を領主が受け取っていたとする(五公五民)。
そのうえでさらに臣下の取り分を3分の2と仮定したため、大名の取り分は総石高の6分の1とした。一方で、宮本武蔵のように家臣を持たない武士の場合にはそのまま収入とした。
●米1石=1000合=150キログラムとし、当時の米の価値から15万円とした。
●1両は当時のレートで換算。江戸時代中期の市川團十郎のみ6万円とし、他は江戸時代後期の偉人であることから1万円とした。
●西郷隆盛が陸軍大将となった明治初期の1円は現在の2万円とし、伊藤博文らの時代である明治後期は1万円、東条英機らの時代である昭和初期は5000円とした。
●金額については諸説存在するケースがある。

【歴史上の偉人たち「年収」ランキング】
(偉人名:当時の年収・現在価値での年収・備考の順)

(1位)織田信長:117万石・1750億円
 本能寺の変の直前である1582年頃に支配していた、関東の一部や中部・近畿・中国地方の石高が700万石。

(2位)徳川家康:67万石・1000億円
 1600年頃の伊豆・相模・武蔵・上野・下野・下総・上総・常陸・甲斐などを直轄領としており、その石高は400万石。

(3位)豊臣秀吉:37万石・555億円
 天下統一後、関白職を秀次に譲り太閤となった最盛期1591年頃の直轄領の石高は222万石。

(4位)上杉謙信:24万石・362億円
 出羽、越後、佐渡、越中、能登などを領地とした時の石高が145万石。

(5位)武田信玄:22万石・335億円
 甲斐、信濃、駿河と遠江、三河、飛騨、越中などを領地とした時の石高は約134万石。

(6位)伊達政宗:19万石・285億円
 1589年の秀吉による小田原城攻めに参加する直前の頃、陸奥、出羽66郡の約半数を治めていた時の石高が114万石。

(7位)徳川光圀:4万6666石・70億円
 水戸藩第二代藩主となった1661年の石高28万石をもとに算出。

(8位)石田三成:3万2000石・47億円
 関ヶ原の戦いにおいて西軍の指揮官だった頃の石高が19万石。敗戦後、領地は没収された。

(9位)真田昌幸:6333石・9億5000万円
 石高は3万8000石。長男の信之は13万石まで勢力を伸ばした。

(10位)藤原道長:田地、綿などの現物支給・4億5000万円
 従一位太政大臣時の給料。ほかにも荘園の名義貸しをして得た収入があったといわれている。

(11位)大岡忠相:1666石・2億5000万円
「大岡裁き」の大岡越前。町奉行での働きが認められて寺社奉行になり、1万石の大名となった。

(12位)長谷川平蔵:1500石・2億2500万円
『鬼平犯科帳』の鬼平のモデル。火付盗賊改方の長を務め、情報収集のために町人にそばを振る舞うなどして経費がかさんだという。

(13位)勝海舟:1000石・1億5000万円
 1872年制定の太政官制における従二位の年給俸禄を基に算出。枢密顧問官も務めていたが、その待遇は不明。

(14位)大久保利通:7200円・1億4000万円
 参議という大臣クラスの役職の給料。実質的に政界のトップとして「富国強兵」をスローガンに殖産興業政策を推進した

(NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース 3月17日(木)11時0分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160317-00000011-pseven-life

つづく


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1: 幕末まとめ 投稿日:2005/10/06(木) 14:05:27
専用スレがないので立ててみました。
国学者・平田篤胤について語りましょう。

平田篤胤(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/平田篤胤

4: 幕末まとめ 投稿日:2005/10/06(木) 20:53:52
まずは、平田神道をざっと説明して下さいな。

7: 幕末まとめ 投稿日:2005/10/13(木) 19:48:35
平田篤胤 

古代日本の純粋な神道を追求した国学者 
平田篤胤(ひらた あつたね)1776~1843 
秋田県秋田市生まれ 
 国学は、儒教や仏教など外国からもたらされた価値観を一切排除し、純粋な 
日本文化の復活を主張する、江戸期から興った新しい学問分野です。国学には 
二つの大きな流れがあります。一つは、「古事記」「万葉集」「古今和歌集」 
「新古今和歌集」など古文献を研究対象として、純粋な日本思想の発掘と復古 
を目指したもので、契沖(けいちゅう)、加茂真淵(かものまぶち)、本居宣 
長(もとおりのりなが)などがその代表です。もう一つは、このような日本の 
古典を研究しつつ、古代からの神道思想の体現に、より深いエネルギーを傾注 
した人たちで、山崎闇斎(やまざきあんさい)そして平田篤胤などがこの学派 
にあたります。

8: 幕末まとめ 投稿日:2005/10/13(木) 19:50:39
 秋田藩士・大和田家に生まれ、幼少のころより山崎闇斎学派の師に学んだ平 
田篤胤は、25歳の折、備中国(岡山県)松山藩士・平田篤穏(あつやす)の養 
子となります。本居宣長の著書を読んで国学を志し、さらにその弟子入りを希 
望しますが、宣長はすでに他界していたため、「夢の中で宣長に会い、弟子入 
りを許された」と語って、没後の門人を称して研究活動を始めます。 

 篤胤は、上記夢の話にもみられるように、神秘性を重視する性癖があり、 
その研究は、宣長の学統・国文学から、わが国古来の神秘性を追求する方向 
へと傾斜して行きます。1812年に刊行した「霊能真柱(たまのみはしら) 
」は、宣長の影響下を脱し、独自の見解をうちだした著作です。 

 神秘性追求から始まり、国学の宗教的側面、すなわち神道へ最終的に辿りつ 
いたのは自然な流れであり、そしてついに、驚くべき結論を導き出します。 
それは「この地球上、日本こそが唯一無二の神の国であり、儒教・仏教・キリ 
スト教も神道から派生したものに過ぎない」とする狂信的日本至上主義なの 
です。この考えの重要な側面は、地球上最上の神の子孫である天皇に絶対的忠 
誠を誓う、というところにあります。 

 日本沿海に外国の艦船が出没し、幕藩体制も揺らぎをみせ始め、国内外の激 
動を予感させるこの時代、著述しつつ、行動的アジテーターでもある篤胤は、 
次第に名声を博し、門人も激増します。しかしその熱烈な尊皇鼓吹や、過激な 
儒教攻撃は幕府の存立に関わるとみなされ、著書刊行差し止めの上、郷里秋田 
へ追放され、その生涯を閉じます。篤胤の思想は、幕末維新の尊皇攘夷主義の 
精神的支柱となったばかりか、昭和の軍国主義にまで影響を与えたのです。


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1: 幕末まとめ  投稿日:2013/11/23(土) 09:28:23.00 ID:EoSBcHVG0
 兵庫県赤穂市教育委員会は22日、相生市の明顕(みょうけん)寺所蔵の古文書7点を調査した結果、
赤穂義士神崎与五郎(1666~1703年)の関係文書の真筆と確認した‐と発表した。神崎は俳句の
名手で赤穂藩の「俳諧三羽烏(がらす)」と称された。研究者は「俳句仲間の交流を示す貴重な資料」とする。
(小林伸哉)

 文書は、江戸城で赤穂藩主が刃傷事件を起こした1701(元禄14)年以前の執筆とみられる。
市教委によると、「7点もの義士資料の確認は、全国的にも近年まれ」という。

 神崎の自筆は3点。銀札百目(現在の約40万円分)を借りた借用書もあり、連帯保証人は義士で同じ
津山藩(現岡山県)出身の茅野和助。藩士の強いつながりを浮き彫りにする。

 同じく俳諧三羽烏と呼ばれ、忠義と親孝行のはざまで自害した赤穂藩士萱野三平が神崎に宛てた
手紙は、もう一人の三羽烏の義士大高源五との句のやりとりを記し、あなたの句も読みたいと書く。

 研究団体「中央義士会」(東京都中央区)の中島康夫理事長(72)は「平和な赤穂藩の日常、
討ち入り前の義士のつながりがうかがえる」と評価する。

 文書は23日~12月15日、赤穂市立有年考古館(同市有年楢原)で一般公開。無料。火曜休館。
同館TEL0791・49・3488

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201311/0006518789.shtml


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