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カテゴリ:幕末 > 人物

1: 幕末まとめ 2018/05/24(木) 15:36:49.26 _USER9
「のっぺらぼう」の西郷像の写真
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http://www3.nhk.or.jp/lnews/shutoken/20180524/1000012167.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いので御注意を

明治時代、東京・上野に西郷隆盛の像を作る過程で写された、顔が彫られていない
「のっぺらぼう」の状態の木型の写真が残されていることがわかり、調査に当たった専門家は
「顔写真が1枚もないなかで、顔の制作に苦労したことがわかる」と話しています。

この写真は、東京藝術大学大学美術館で10年ほど前に見つかり、その後、調査が進められてきました。
縦16.5センチ、横10.5センチの紙に焼かれた写真には、東京・上野にある
犬を連れた西郷隆盛の銅像とほぼ同じ姿の木型が写されていますが、西郷も犬も顔が彫られておらず、
「のっぺらぼう」の状態になっています。
また、写真の左上には西郷の肖像画が付け加えられています。

調査に当たった東京藝術大学の薩摩雅登教授によりますと、上野の西郷像は
大学の前身に当たる東京美術学校が制作を進め、今回の写真は、銅像を作る前に試作した木型の
途中の状態を写したと考えられるということです。

銅像が完成したのは、明治10年の西南戦争で西郷が自害してから20年以上がたった明治31年で、
薩摩教授は「西郷の死後、しばらくたっているうえに顔写真が1枚もない。
肖像画から横顔などを想像して立体にするのはさぞかし大変だったと思う。
写真からは顔の制作に苦労したことがわかる」と話しています。

この写真は、東京藝術大学大学美術館で26日から開かれる、大河ドラマ「西郷どん」の特別展で初めて公開されます。

上野の西郷隆盛像は、明治31年に完成したあと、120年にわたって
上野のシンボルとして親しまれていますが、制作は大きな困難を伴いました。
東京藝術大学の薩摩雅登教授によりますと、西郷隆盛は明治10年の西南戦争で自害し
政府から反逆者とされていましたが、市民の間で人気が根強く続いていたことから
明治22年に大日本帝国憲法の発布にあわせて名誉回復が図られ、東京に銅像が作られることになりました。

当初は馬に乗った軍服姿の予定でしたが、予算が足りなかったことや、
西郷のいとこの大山巌の進言などによって、浴衣姿になったということです。

制作には、高村光太郎の父親で日本を代表する彫刻家の高村光雲などが参加し、
東京美術学校が総力を挙げて取り組みましたが、資料が乏しかったことから難航したと言います。
特に苦心したのは顔の制作で、写真が1枚も残されていないなか、
イタリアの画家キヨッソーネが描いた肖像画や、弟の西郷従道や大山巌の顔、
それに西郷をよく知る人物の話を基に進められたということです。

高村光雲は当時の新聞に、西郷と面識がなく肖像画しか残されていないなかで、
顔を立体で表現する難しさについて語っています。
銅像はこうした苦労の末に完成しましたが、除幕式で西郷の妻が
その姿に不満を持ったというエピソードも残されています。

05/24 12:13

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1: 幕末まとめ 2018/04/01(日) 09:24:18.40 _USER9
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産経新聞 2018.4.1 05:00

「坂本龍馬」を外し「従軍慰安婦」を明記するなどした高校歴史用語精選案を作成した民間団体「高大連携歴史教育研究会」(会長・油井大三郎東大名誉教授)が、
外部からの批判を踏まえて用語の選定基準を修正したことが31日、分かった。
波紋を広げた坂本龍馬などの人物用語をめぐっては「一般によく知られた人物などを厳選して取り上げる」とし、評価が分かれる近現代史の用語についても偏った教育にならないよう注意を促す項目を追加した。
近く団体のホームページに掲載する。

精選案の用語選定を統括した副会長の桃木至朗阪大教授は産経新聞の取材に対し、
すでに公表している用語リストの改定については「専門家から多数の意見が寄せられている」として含みを持たせたが、今後の方針は明示しなかった。
用語選定グループには複数の教科書執筆者が入っており、教科書編集への一定の影響力があるとの見方もある。

同団体は増え続ける歴史用語の暗記偏重から歴史的思考力の育成を目指す授業への転換を目指し、全国の大学、高校の教員らの呼びかけで平成27年に発足した。会員数は約400人。
生徒が議論する活動を重視した当時の高校学習指導要領案の方針も踏まえ、29年11月に世界史、日本史とも現行教科書の約半分となる1600語程度の精選案を公表した。
今年3月末までに最終案を公表し、教科書会社や大学入試関係者に提言するとしていた。

ただ、坂本龍馬、武田信玄といった有名な人物が数多く外れたことに批判が集まったほか、現行教科書で少数表記である「従軍慰安婦」「南京大虐殺」などが入り、物議も醸した。
この団体には延べ約40人の教科書執筆者が含まれ、一部の会員で構成された選定グループにも複数の教科書執筆者が入っていたため、教科書編集や大学入試への影響も指摘されていた。

団体は精選案を公表した昨年11月から今年2月末まで、他の学術団体と選定基準に関するアンケートを実施。
その結果、「歴史用語の精選に一定の理解が得られた」としたが、選定基準には賛否が分かれ、一般からの批判的な意見なども踏まえて基準を修正した。
高校現場からも内容の再検討を求める声が出ていた。

団体の選定基準は、大半の教科書に掲載され、時代の流れが分かるような概念を中心に選び、文化史用語は必要最低限にする-というもので、
修正後は「国民意識の涵養(かんよう)などを踏まえ、よく知られた人物・事件を厳選する」「政治的・外交的に理解が分かれる事項は多面的な理解・考察ができるように取り上げる」を追加した。
用語集については「複数のリストがあってよく、入試問題や教科書はそれらを参考にして、あくまで自主的に作られるべきもの」との考え方も示した。



【用語解説】歴史用語精選案

歴史授業での暗記偏重の克服を目指す高大連携歴史教育研究会が昨年11月、歴史的思考力育成型科目への転換を図るため、「教科書本文に載せ、入試でも知識として問う基礎用語」として、
日本史、世界史とも現行の半分となる約1600語を選択し公表。これら以外の用語については、教科書のコラムなどで「発展用語」として収録することを否定していない。

http://www.sankei.com/life/news/180401/lif1804010012-n1.html
http://www.sankei.com/life/news/180401/lif1804010012-n2.html

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1: 幕末まとめ 2018/03/07(水) 07:08:13.76 _USER9
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明治維新から150年を記念するイベントがあちこちで行われている。しかし維新から近代日本の歩みは、単純にたたえられる部分だけでできているわけではない。歴史とどう向き合っていくべきか、改めて考えたい。

「明治150年」。北海道から沖縄まで、いま全国でこの言葉が飛び交っている。維新から150年を記念して、国や地方のイベントがあちこちで開催されているのだ。内閣官房「明治150年」関連施策推進室によれば、イベントの数は実に2008件。国が音頭を取っているが、明治維新で功績のあった「薩長土肥」4藩に由来する県が中心で、もっとも多いのは安倍晋三首相のおひざ元、山口県(長州)で175件。明治政府から「賊軍」とされた、奥羽越列藩同盟に由来する県は少ない。賊軍とされた旧会津藩の福島県会津若松市が掲げるのは「戊辰戦争150周年」だ。

「親思うこころにまさる親ごころ きょうの音ずれ 何ときくらん」

 山口県萩市。萩市立明倫小学校(児童数679人)では毎朝8時20分、子どもたちの元気な声が聞こえる。

 朗唱しているのは、幕末の思想家、吉田松陰が書き残した「ことば」だ。

 同校の椿義憲(つばきよしのり)校長(60)は言う。

「松陰先生の教えの根本は、人は誰でもよさがある。人に対しては真心をもって当たるよう説いている。その当たり前のことを、当たり前にできる子どもに育ってほしい」

 同校は江戸時代の長州藩藩校「明倫館」の流れをくむ。朗唱は1981年から始まった。子どもたちは入学すると1学期ごとに、一つのことばを朗唱していく。先のことばは、1年生が3学期に朗唱する。その意味は、「子が親を思う心よりも、子を思いやる親の気持ちのほうがはるかに深い」ということ。

 尊皇攘夷思想で幕末の志士たちに影響を与えた松陰。戦前、「忠君愛国」の象徴的な人物として「修身」の教科書に登場したこともあった。いまは愛国教育というよりは、地域の歴史を踏まえた取り組みとして、県内外からの視察が多い。人材育成の会社を中心に年200人近くが訪れる。

「私どもは教育者としての松陰先生の力を借りているだけです」(椿校長)

 安倍首相は1月の施政方針演説で、明治の先人にならい「国難」を乗り越え、時代を切り開いていこうと呼びかけた。その安倍首相がよく引用して使うのが、吉田松陰の言葉だ。

 安倍首相は15年の施政方針演説でも、吉田松陰がしきりに唱えた「知行合一」という陽明学の言葉を引いてこう述べた。

「この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではありません。『行動』です」

 萩博物館特別学芸員で幕末維新研究家の一坂太郎さん(51)によれば、吉田松陰には史実としての松陰と、偶像化された松陰の二つの顔があるという。

「松陰はどの派閥に属したわけでもなく、純真なイメージがつきまといます。そのため偶像化する人たちにとって、利用しやすかった。時の為政者の側だけでなく、二・二六事件を起こした青年将校も日本赤軍の岡本公三も崇敬していたのです」

 薩摩や長州の下級武士たちが封建的な徳川幕府を倒し、富国強兵で新しい近代国家をつくり、欧米列強に対抗して日清、日露戦争で勝利するまでになった──。そんな輝かしい明治の成功体験を下敷きに、首相官邸のホームページは「明治150年」施策の狙いとして、「明治の精神に学び、日本の強みを再認識すること」を挙げる。

 政治学者で東京大学名誉教授の姜尚中さん(67)は、「明治の精神」についてこう話す。

「端的に言えば、歴史を回顧して往時をしのぶ国家的な行事にとどまるものではなく、日本がどんなにすごい国家なのかというメッセージに尽きます。愛国心の鼓舞とともに国家を中心とした『和魂洋才』のオプティミズム、つまり楽観主義をふりまこうとしているのだと思います」

 しかし、その和魂洋才のオプティミズムを吹き飛ばすほどの悲劇をもたらしたのが、東京電力福島第一原発の事故だった。戦後の負の側面というより、日本近代化の負の側面が現れたと、姜さんは言う。

 原発事故から約2週間後、姜さんは取材でテレビクルーと一緒に福島に入った。その後も何度か訪れている。歩きながら感じたのは、近代国家というものの酷薄さだった。

「背後に国家の影を見ないわけにはいきませんでした。しかもそこに生きた人間が見えず、

※全文はソース先をお読み下さい

2018.3.6 16:00 AERA
https://dot.asahi.com/aera/2018030500017.html?page=1
165: 幕末まとめ 2018/03/07(水) 08:24:16.60 
>>1 
>吉田松陰がしきりに唱えた「知行合一」という陽明学の言葉 

本家は王陽明だし、陽明学は山田方谷、大塩平八郎、渋沢栄一も 
いましたよw 

生姜は朝鮮は朱子学の本場だろうしなあ、陽明学はお嫌いか? 

207: 幕末まとめ 2018/03/07(水) 08:39:48.48 
>>1 
当時阿片戦争後日本にも欧米列強の攻撃があるのでは、危機感を持って立ち上がった幕末維新の幕府新政府何れの方の人物の考えや気持ちが平和ボケには分からんだろうな 

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1: 幕末まとめ 2018/01/21(日) 15:36:01.00 _USER9
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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180120-00050126-yom-ent

幕末の長州藩が1864年(元治元年)7月の禁門の変に敗れた後、奇兵隊の創設者・高杉晋作
(1839~67年)の切腹や斬首を検討していたことを示す文書が、山口県岩国市の市立博物館
「岩国徴古館(ちょうこかん)」が所蔵する長州藩岩国支藩の藩政史料から見つかった。

禁門の変後、第1次長州征討軍参謀の西郷隆盛は、長州藩に急進派藩士の処分を求めた。
当時、同藩では幕府に恭順する保守派が藩政を掌握。岩国領主・吉川経幹(きっかわつねまさ)は
幕府との調停役を務めていた。

晋作に関する文書は2点あり、一つ目は長州藩家老・志道安房(しじあわ)が64年11月9日、
征討軍の前線基地があった広島に向かう途中、岩国領に立ち寄った際の「手控(てびかえ)」。
藩の処分案が記され、晋作は「高杉和助」の名で「切腹之部」にあった。二つ目は、晋作ら
急進派7人の名が書かれた「斬首状写(うつし)」。「姦吏(かんり)と徒党を結び、上を欺き、
下を惑わし、君恩を忘れ、度々亡命すること不義不忠の至り」と晋作の罪状を挙げ、
「斬首被仰付(おおせつけられ)候事(そうろうこと)」としている。

引用元: ・【歴史】禁門の変のあと、高杉晋作の斬首を長州藩が検討。岩国で文書発見

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1: 幕末まとめ 2018/01/17(水) 18:11:53.75 _USER9
会津若松市に寄贈された会津藩士・山川浩の資料=会津若松市で
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福島県会津若松市に寄贈された会津藩士・山川浩の資料=福島県会津若松市で2018年1月16日、湯浅聖一撮影
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 会津藩士で「会津の知将」と称された山川浩(1845~98年)ゆかりの品が16日、会津若松市に寄贈された。戊辰(ぼしん)戦争勃発の一戦となった1868年の鳥羽伏見の戦いの敗走中、熱病にかかった山川を手厚く看護した和歌山県御坊市の中野家が所有していた資料で、会津若松市の担当者は「会津藩士が苦労して江戸の会津藩邸に帰還したことを具体的に表す貴重な資料」と評価している。今春に一般公開する予定だ。【湯浅聖一】

 山川は会津藩で家老を務めた山川家の長男。若くして家督を継ぎ、藩主・松平容保(かたもり)が京都守護職に就くのに伴って上洛した。戊辰戦争後は斗南藩で大参事となり、その後は陸軍少将、貴族院議員に、98年には男爵に叙せられた。

 戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いで会津藩を率いたものの、敗れて退却。藩士約1800人とともに紀州に落ち延び、小松原村(現和歌山県御坊市)にたどり着いたところで熱病にかかった。当時、紀州藩からは敗走兵をかくまわないように通達が出されていたが、中吉旅館の主人・中野吉右衛門の母でおかみのおこうが献身的に看護し、命を救われて江戸の藩邸に帰った。

 寄贈された資料は、山川が明治政府の役人などになっていた82~89年に中野家の恩義に報いようと、吉右衛門に宛てた感謝の手紙や九谷焼の大皿など9点。山川が学事巡視で和歌山に再訪した際に土産として贈った会津塗りのわんや、大水害時の見舞状などが含まれている。

 吉右衛門のひ孫にあたる中野健さん(64)=横浜市戸塚区在住=が、空き家となっていた実家を調べて発見。今年が戊辰戦争から150年になることから会津若松市への寄贈を決めた。中野さんは「親などからも聞かされていなかったので驚いている。ゆかりのある会津若松市と歴史を共有し、交流につながれば」と話している。

 市教委文化課の近藤真佐夫主幹は「会津藩が戊辰戦争で『賊軍』と言われたにもかかわらず、親身になって世話や交流を続けてくれたことに感謝したい。山川の資料は地元でも少ないので、今後資料を分析したい」と話した。市は4月下旬にも市歴史資料センター「まなべこ」で一般公開したい考えだ。

毎日新聞 2018年1月17日 地方版
http://mainichi.jp/articles/20180117/ddl/k07/040/280000c?inb=ra


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