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カテゴリ:幕末 > 人物

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1: すらいむ ★ 投稿日:2015/03/24(火) 19:29:44.40
吉田松陰の自筆史料68点発見 山口・萩

 幕末の思想家、吉田松陰の手紙やメモなど、未発表のものを含む自筆の史料68点が
山口県萩市で見つかり、松陰の活動や人柄を知る貴重な史料として注目されます。

 萩博物館によりますと、萩市に住む女性からおととし以降、市に託されたおよそ
1500点の史料の中に、吉田松陰が書いたとみられる手紙などが見つかったということです。

 このため明治維新史が専門で広島大学大学院の三宅紹宣教授に詳しい調査を依頼したところ、
筆跡などから手紙やメモなど68点が松陰の自筆のものだと分かったということです。

 このうち、「写本録」は松陰みずからが松下村塾で写本をして資金を集めていたことが
分かる貴重な資料です。

 また、松陰らが萩藩主を通じて朝廷を動かし、尊皇攘夷を実行させる計画を書いた草稿は、
紙の余白にまで文字が書き込まれていて、紙を大切にする松陰の人柄や、尊皇攘夷に向けて
具体策を練っていた様子がうかがえます。

 萩博物館によりますと、女性の先祖が松陰の兄の杉民治と交流があり、杉家が保管していた
松陰の史料が今回、見つかったとみられるということです。

 萩博物館の樋口尚樹学芸専門監は「68点もの大量の吉田松陰の史料が出てきたことに大変
驚いている。多くは『吉田松陰全集』にも載ってなく、非常に貴重なものだと思う」と話しています。

(動画はソースでご確認下さい)

NHK NEWS WEB 3月24日 18時07分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150324/k10010026421000.html

引用元: 【文化】吉田松陰の自筆史料68点発見 山口・萩[03/24]

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1: 日本@名無史さん
竜馬の功績を語る上でもっとも大きな
薩長同盟
これは、月形洗蔵が最初に考え出したものであり
西郷、高杉の両者を下関で最初に引き合わせたのも月形である
薩長同盟最大の功労者は龍馬ではなく、月形洗蔵である
彼は、筑前に逃げ延びた高杉をかくまり
大宰府への五卿落ちにも関わった
これほどの人物が歴史に埋もれるのは忍びない
司馬遼太郎の影響によって消された、月形洗蔵について
ぜひ語り合いたい

月形 洗蔵(つきがた せんぞう、文政11年5月5日1828年6月16日) - 慶応元年10月23日1865年12月10日))は、江戸時代末期(幕末)の福岡藩藩士。薩長同盟の起草文を考案し、早川勇(早川養敬)とともに斡旋に尽力した。

文政11年(1828年)、福岡藩士・月形深蔵の子として誕生。甥に月形潔がいる(父・深蔵の一番下の弟・春耕の子)

嘉永3年(1850年)に父・深蔵の家督を継ぎ、馬廻役から大島(福岡県宗像市大島、旧宗像郡大島村)の定番となるも辞職。万延元年(1860年)に藩主・黒田長溥尊王論の立場から述べた建白書を提出、さらに8月には藩の汚職を批判する建言を行った。

このことから11月に捕縛され、翌年の文久元年(1861年)に家禄没収の上、御笠郡古賀村(現筑紫野市古賀、上古賀)に幽閉される。文久3年(1863年)6月には家老・加藤司書の進言により帰宅するも、なお蟄居を命ぜられ、屋外に出ることを禁じられた。元治元年(1864年)5月、罪を許されて職に復し、町方詮議掛のち吟味役を命じられ、薩長2藩の融和および薩長同盟の起草に勤め、長州征伐軍の解兵を行い、慶応元年(1865年)には三条実美以下5卿が太宰府天満宮延寿王院太宰府市)に移る際、これを下関(山口県下関市)まで迎えに行き案内した。

しかし佐幕派の復権により罪を問われ処罰、同年10月23日に桝木屋(福岡市中央区地行浜)において加藤以下13名とともに斬首された(乙丑の変)。明治31年(1898年)、贈正四位 


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1: 日本@名無史さん
宮内大臣をしていた晩年、新選組の近藤勇にたいへん好意を寄せていた田中光顕。
土佐出身の彼を通じて、坂本竜馬と新選組についてマターリ語り合いましょう。

田中 光顕(たなか みつあき、天保14年閏9月25日1843年11月16日) - 1939年昭和14年)3月28日)は、日本武士土佐藩家老深尾氏家臣、官僚政治家栄典従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、は青山。フリーカメラマンの田中光常は孫。



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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/09/29(水) 16:07:18
無かったので

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/12(火) 14:33:35
この人には榎本武揚のように維新後も活躍してほしかった。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/24(日) 08:07:51
まぁ幕権主義者だったしな。
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1: 風吹けば名無し 投稿日:2013/04/11(木) 09:57:46.98
(右) 望月亀弥太  (勝海舟に航海術を学び、将来を嘱望された若手志士)
(二) 杉山松助   (微禄の武士ながら学問も気節もあった。桂小五郎を慕った)
(中) 大高又次郎  (甲州流軍学を学んだ。皮兜の製作に長け、その才能を藩主に認められた)
(三) 宮部鼎蔵   (志士たらば一度は宮部と対談すべしとまでいわれた巨魁)
(一) 松田重助   (自分の人相書の下で一週間を過ごしたという剣の達人。策士としても聞こえたという)
(左) 北添佶摩   (遥か蝦夷まで旅行した雄弁家)
(遊) 石川潤次郎  (望月を訪ねたところこの変に遭遇。見るに見かねて加勢したが、斃れた)
(捕) 大高忠兵衛  (弟・又次郎と共に志士活動をした。一座の中でも年頭であった) 
(投) 吉田稔麿   (吉田松陰が最も愛した逸材)

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