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カテゴリ:幕末 > 人物

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1: 名無しさん 投稿日:2010/09/09(木) 21:37:31
敬親はなぜ存在感ないのだろう

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1: 名無しさん 2014/10/15(水) 09:31:29.47 et
なんで剣心のライバルみたいになってるんだろう

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1: 名無しさん 投稿日:2015/02/17(火) 00:24:49.79
総長ってかなり偉そう
2: 名無しさん 投稿日:2015/02/17(火) 00:25:21.16
ドラゴンボールのピッコロさんくらい

4: 名無しさん 投稿日:2015/02/17(火) 00:26:28.85
>>2 重要人物だな 
そんな人が脱走とかよっぽどだね
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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/11/24(月) 23:08:13
橋本 左内(はしもと さない)は幕末の越前国福井藩士。

著書に『啓発録』。嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し
蘭方医学を学んだ後、水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜
や横井小楠らと交流する。越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や
藩校・明道館学監心得となる。
一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術
の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派。安政6年(1859年)、井伊直弼が発令
した安政の大獄で小塚原刑場にて斬首。享年26。
墓は吉田松陰などのものとともに南千住回向院。

僅か26年の生涯。
藤田東湖の推挙によって福井藩中根雪江が取り立て、藩主松平春嶽に用いられたのが22歳。
僅か数年間の活動期間に偉大な足跡を残した侍。
西郷隆盛をして、最も影響を受けた人物として、先輩では藤田東湖、そして同輩(実は年下)で
は橋本左内を挙げていることはその傍証。

その資料の一部を見るだけでも、幕末に全地球規模の気宇壮大な戦略家がいたことが分かる。

橋本左内



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1: 名無しさん 投稿日:2014/04/28(月) 19:33:49.40

(1)幕末、木更津に脱藩して戦った大名がいた?

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高台に建つ請西藩真武根陣屋跡の石碑。若き藩主、林忠崇は脱藩し、戦った=千葉県木更津市請西

 激動の幕末、脱藩して戦った大名が木更津にいたらしい。脱藩とは、志を果たすために藩の束縛を断ち切ること。なぜ、藩主自ら…。

 伝説を追ってみよう。JR内房線に乗り、木更津市へ向かう。市郷土博物館金のすずの学芸員、稲葉昭智さん(50)に聞いてみた。 

 「はい。脱藩して、命がけで戦った殿様がいます。世の中にこういう人物がいてよかった」

 その名は、請西(じょうざい)藩(木更津)藩主、林忠崇(ただたか)。

 慶応4(1868)年、新政府軍が江戸に進軍してきた。諸藩が恭順の意を表すなか、林忠崇は決断した。徳川家に忠義を尽くすため、戦う-と。

 若き藩主は脱藩した。徳川家や請西藩、領民が後難を受けないようにとの配慮からとみられる。


 請西藩は1万石の小藩だった。なぜ、強大な新政府軍に立ち向かおうとしたのか。素朴な疑問がわく。稲葉学芸員が解説する。

 「徳川将軍家には『献兎賜杯(けんとしはい)』という正月の儀式があり、
林家が兎を献上していました。元旦、将軍は兎汁を食べ、一番先に林家当主へ御酒を賜(たまわ)ったのです」

 この儀式は故事に基づく。徳川家康の先祖が信州を流浪していた。寒い師走。
林家の先祖の屋敷を訪れた。当主は雪の中、猟に出て兎を捕らえた。
兎汁にしてふるまい、正月を賀した。徳川家はその後栄え、儀式として受け継がれていったという。
徳川家と林家は特別な関係で結ばれていたのだ。

http://sankei.jp.msn.com/region/news/140428/chb14042807000001-n1.htm 

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