カテゴリ:幕末 > 人物
斎藤一って新撰組の中じゃ弱いよな?
新撰組の山南敬介ってどのくらい偉かったの?
総長ってかなり偉そう
2: 名無しさん 投稿日:2015/02/17(火) 00:25:21.16
ドラゴンボールのピッコロさんくらい
4: 名無しさん 投稿日:2015/02/17(火) 00:26:28.85
>>2 重要人物だな
そんな人が脱走とかよっぽどだね
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そんな人が脱走とかよっぽどだね
福井藩士・橋本左内の慧眼凄過ぎだろ…..どれだけ時代の先を読んでるんだよ…..
橋本 左内(はしもと さない)は幕末の越前国福井藩士。
著書に『啓発録』。嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し
蘭方医学を学んだ後、水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜
や横井小楠らと交流する。越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や
藩校・明道館学監心得となる。
一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術
の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派。安政6年(1859年)、井伊直弼が発令
した安政の大獄で小塚原刑場にて斬首。享年26。
墓は吉田松陰などのものとともに南千住回向院。
僅か26年の生涯。
藤田東湖の推挙によって福井藩中根雪江が取り立て、藩主松平春嶽に用いられたのが22歳。
僅か数年間の活動期間に偉大な足跡を残した侍。
西郷隆盛をして、最も影響を受けた人物として、先輩では藤田東湖、そして同輩(実は年下)で
は橋本左内を挙げていることはその傍証。
その資料の一部を見るだけでも、幕末に全地球規模の気宇壮大な戦略家がいたことが分かる。
橋本左内
著書に『啓発録』。嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し
蘭方医学を学んだ後、水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜
や横井小楠らと交流する。越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や
藩校・明道館学監心得となる。
一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術
の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派。安政6年(1859年)、井伊直弼が発令
した安政の大獄で小塚原刑場にて斬首。享年26。
墓は吉田松陰などのものとともに南千住回向院。
僅か26年の生涯。
藤田東湖の推挙によって福井藩中根雪江が取り立て、藩主松平春嶽に用いられたのが22歳。
僅か数年間の活動期間に偉大な足跡を残した侍。
西郷隆盛をして、最も影響を受けた人物として、先輩では藤田東湖、そして同輩(実は年下)で
は橋本左内を挙げていることはその傍証。
その資料の一部を見るだけでも、幕末に全地球規模の気宇壮大な戦略家がいたことが分かる。
橋本左内
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幕末に脱藩して戦った"大名" 林忠崇って知ってる?
1: 名無しさん 投稿日:2014/04/28(月) 19:33:49.40
(1)幕末、木更津に脱藩して戦った大名がいた?
高台に建つ請西藩真武根陣屋跡の石碑。若き藩主、林忠崇は脱藩し、戦った=千葉県木更津市請西
激動の幕末、脱藩して戦った大名が木更津にいたらしい。脱藩とは、志を果たすために藩の束縛を断ち切ること。なぜ、藩主自ら…。
伝説を追ってみよう。JR内房線に乗り、木更津市へ向かう。市郷土博物館金のすずの学芸員、稲葉昭智さん(50)に聞いてみた。
「はい。脱藩して、命がけで戦った殿様がいます。世の中にこういう人物がいてよかった」
その名は、請西(じょうざい)藩(木更津)藩主、林忠崇(ただたか)。
慶応4(1868)年、新政府軍が江戸に進軍してきた。諸藩が恭順の意を表すなか、林忠崇は決断した。徳川家に忠義を尽くすため、戦う-と。
若き藩主は脱藩した。徳川家や請西藩、領民が後難を受けないようにとの配慮からとみられる。
請西藩は1万石の小藩だった。なぜ、強大な新政府軍に立ち向かおうとしたのか。素朴な疑問がわく。稲葉学芸員が解説する。
「徳川将軍家には『献兎賜杯(けんとしはい)』という正月の儀式があり、
林家が兎を献上していました。元旦、将軍は兎汁を食べ、一番先に林家当主へ御酒を賜(たまわ)ったのです」
この儀式は故事に基づく。徳川家康の先祖が信州を流浪していた。寒い師走。
林家の先祖の屋敷を訪れた。当主は雪の中、猟に出て兎を捕らえた。
兎汁にしてふるまい、正月を賀した。徳川家はその後栄え、儀式として受け継がれていったという。
徳川家と林家は特別な関係で結ばれていたのだ。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140428/chb14042807000001-n1.htm
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