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カテゴリ: 昭和

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1: 名無しさん 2016/08/06(土) 07:29:07.19 BE:194767121-PLT(12001) ポイント特典
国際通信社・ラジオ局「スプートニク」の依頼により日本でPopulus社によって実施された新たな世論調査「スプートニク。世論調査」によると、世論調査に回答した日本人の
過半数以上(61パーセント)が、米国は広島と長崎への原爆投下について謝罪するべきだと考えており、回答者の74パーセントが、原爆投下によって大勢の市民が命を
落としたため、戦争だからといって原爆投下を正当化してはならないと考えていることが分かった。

http://jp.sputniknews.com/japan/20160806/2603607.html


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1: 丸井みどりの山手線 ★ 投稿日:2016/03/10(木) 12:38:20.77
2016/3/10 11:18
 約10万人が亡くなったとされる太平洋戦争末期の東京大空襲から71年となった10日、犠牲者らの遺骨が安置されている東京都慰霊堂(墨田区)で法要が営まれ、参列者が不戦の誓いを新たにした。

 被災者や遺族らの高齢化が進んでおり、どのように風化を防いでいくかが課題となっている。空襲は全国の都市で相次ぎ、被害者に対する救済を求める声もあるが、支援法制定に向けた見通しは立っていない。

 法要には約600人が出席。東京都の舛添要一知事は「戦争の悲惨さを風化させることなく、命の尊さと平和の大切さを次の世代に語り継いでいく」と追悼の辞を述べた。

引用元:http://this.kiji.is/80482954707944953?c=39546741839462401


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8: 名無しさん 投稿日:2010/10/07(木) 19:34:34
フィリピンで日本軍にボロ負けした米比兵に食料も残さずに逃亡したオッサンがどうしたって?

24: 名無しさん 投稿日:2011/01/24(月) 04:39:47
当時の日本からすれば万能に見えるけど 
基本的には本国の政策決定を執行する立場 
ただ現場責任者としてその政策決定に多大の影響を及ぼしたのはまちがいない 
当時の諸情勢からすると結果的にだが日本にとってはありがたい事も多い

30: 名無しさん 投稿日:2011/02/25(金) 20:07:36.39
東京裁判という芝居を思いつき、演出しなければアメリカの覇権は今も 
揺るがなかった。レッドパージなければ日米はもっと緊密な軍事協定であんたいだった。 
日本人の本質をよめなかった 造詣浅かったなあ。

32: 名無しさん 投稿日:2011/03/01(火) 15:48:15.25
>>30 
× レッドパージ 
○ 公職追放 
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3: 携帯からカキコ 投稿日:2010/09/12(日) 23:36:13 ID:ehdVx1R3O
広島城の駐屯地に兵隊として勤務してたじいちゃんの話。 

昭和20年6月下旬に山で炭を焼いてこいとの命令を受けて、 
10名程の隊員と馬一頭で県北の吉田の山に行った。 
着いた山の中は宿舎なんぞあるわけもなく、雨風をしのげるものもない。 
まずは木を切り倒して、それを元に簡易宿舎を造ることから始めたそうな。 
で8月6日の朝。ようやく炭ができて確認のため、 
窯をフタをしていた土を取り除く作業中に遠くで爆発による雲が上がったそうだ。 
その時は三次の飛行場の燃料タンクがやられたのだと思ったそうだ。 
10時に広島城の本部と定例の無線通信を試みたが応答なし。 
10時の次は15時だ。しかし応答がない。 
なにかおかしいということで隊長が馬に乗って下山し、様子を見てくることになった。 
2日後、隊長が戻って来た。 
全員下山して本部に戻ることになった。鉄道は運行していたそうだ。 
民間人は広島駅には降りられず、一駅前の矢賀で降ろされたらしい。 
じいちゃんたちは軍属なので広島駅へ着いた。それが8月9日の晩のこと。 
建物がなくなってるので駅から宇品の海が見える状態だったそうだ。 
そこから徒歩で浅野庭園の脇を通り、本部に戻った。 
その場には軍属がいたそうだ。原爆が落ちた時はたまたま出張中であり、九死に一生を得たようでした。 
その日はそこに泊まることになったが建物は吹き飛んで仕舞っているので野宿したそうだ。 
転がっていた便所の踏み板を枕にして寝たそうだ。 
翌朝から片付け作業開始。辺りを歩いているとまだ建っている建物(鉄筋コンクリ?)があり、 
中を覗くと部屋の中央に人骨の山ができていたそうだ。 
それらは日光を浴びキラキラ光っていたらしい。 
熱線を避けるため、窓から離れた部屋中央に人々が集まってきて亡くなったのではないかと 
じいちゃんは推測している。 
広島城の堀にも死体が浮かんでおり、回収して福屋の一階に運んだとのこと。 
またある時は、アズキを見つけたこともあった。 
上部は黒焦げになっていたが、すくってみると下の方は問題なさそうだったので 
赤飯を作って食ったらしい(現在の感覚からすると考えられないことだが)。でそのおかげで下痢が治ったらしい。 
そんなこんなで3週間程広島で勤務した後、命令で岡山に転勤になったとのこと。 
その時に検査を受けたら白血球の数が通常の半分にまで減っていたそうだ。 
じいちゃんは今も存命です。ガンにも白血病にもなったことがないです。 
ただしかなりの数の同僚が体調を崩したり病気で早くに亡くなっているそうです。 
直撃を避けられたこと、3週間程で転勤することができたのが大きいと言ってたおります。


31: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/06(水) 14:47:02 ID:jgbyCRkH0
大叔父から「満州でシナ人の首を日本刀でばっさばっさと斬ってたんだぞ」と 
自慢されたことがある。子供の頃なんであまり詳細は覚えていないのと 
その話を大叔父が始めると他の大人がたしなめてたんでどういう状況だった 
のかは分からない 

特高だった祖父から父が聞いた祖父の同僚の話 
経済学を学んでる学生がどうもアカらしい、とその学生の下宿に検挙に 
向かった同僚は、本棚にマルサスの本があるのを見つけ 
「マルクス読んでる貴様はやっぱりアカだろう!」と 
その学生を引っ張ってきて取り調べ(という名の拷問)をしたそうだ 
学生が「経済やってるなら誰でもマルサスは読む」といくら説明しても 
まったく取り合わなかったとか 
残念ながら自分が生まれる前に祖父は亡くなったので他に特高の話は知らん
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