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カテゴリ:昭和 > 出来事

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3: 携帯からカキコ 投稿日:2010/09/12(日) 23:36:13 ID:ehdVx1R3O
広島城の駐屯地に兵隊として勤務してたじいちゃんの話。 

昭和20年6月下旬に山で炭を焼いてこいとの命令を受けて、 
10名程の隊員と馬一頭で県北の吉田の山に行った。 
着いた山の中は宿舎なんぞあるわけもなく、雨風をしのげるものもない。 
まずは木を切り倒して、それを元に簡易宿舎を造ることから始めたそうな。 
で8月6日の朝。ようやく炭ができて確認のため、 
窯をフタをしていた土を取り除く作業中に遠くで爆発による雲が上がったそうだ。 
その時は三次の飛行場の燃料タンクがやられたのだと思ったそうだ。 
10時に広島城の本部と定例の無線通信を試みたが応答なし。 
10時の次は15時だ。しかし応答がない。 
なにかおかしいということで隊長が馬に乗って下山し、様子を見てくることになった。 
2日後、隊長が戻って来た。 
全員下山して本部に戻ることになった。鉄道は運行していたそうだ。 
民間人は広島駅には降りられず、一駅前の矢賀で降ろされたらしい。 
じいちゃんたちは軍属なので広島駅へ着いた。それが8月9日の晩のこと。 
建物がなくなってるので駅から宇品の海が見える状態だったそうだ。 
そこから徒歩で浅野庭園の脇を通り、本部に戻った。 
その場には軍属がいたそうだ。原爆が落ちた時はたまたま出張中であり、九死に一生を得たようでした。 
その日はそこに泊まることになったが建物は吹き飛んで仕舞っているので野宿したそうだ。 
転がっていた便所の踏み板を枕にして寝たそうだ。 
翌朝から片付け作業開始。辺りを歩いているとまだ建っている建物(鉄筋コンクリ?)があり、 
中を覗くと部屋の中央に人骨の山ができていたそうだ。 
それらは日光を浴びキラキラ光っていたらしい。 
熱線を避けるため、窓から離れた部屋中央に人々が集まってきて亡くなったのではないかと 
じいちゃんは推測している。 
広島城の堀にも死体が浮かんでおり、回収して福屋の一階に運んだとのこと。 
またある時は、アズキを見つけたこともあった。 
上部は黒焦げになっていたが、すくってみると下の方は問題なさそうだったので 
赤飯を作って食ったらしい(現在の感覚からすると考えられないことだが)。でそのおかげで下痢が治ったらしい。 
そんなこんなで3週間程広島で勤務した後、命令で岡山に転勤になったとのこと。 
その時に検査を受けたら白血球の数が通常の半分にまで減っていたそうだ。 
じいちゃんは今も存命です。ガンにも白血病にもなったことがないです。 
ただしかなりの数の同僚が体調を崩したり病気で早くに亡くなっているそうです。 
直撃を避けられたこと、3週間程で転勤することができたのが大きいと言ってたおります。


31: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/06(水) 14:47:02 ID:jgbyCRkH0
大叔父から「満州でシナ人の首を日本刀でばっさばっさと斬ってたんだぞ」と 
自慢されたことがある。子供の頃なんであまり詳細は覚えていないのと 
その話を大叔父が始めると他の大人がたしなめてたんでどういう状況だった 
のかは分からない 

特高だった祖父から父が聞いた祖父の同僚の話 
経済学を学んでる学生がどうもアカらしい、とその学生の下宿に検挙に 
向かった同僚は、本棚にマルサスの本があるのを見つけ 
「マルクス読んでる貴様はやっぱりアカだろう!」と 
その学生を引っ張ってきて取り調べ(という名の拷問)をしたそうだ 
学生が「経済やってるなら誰でもマルサスは読む」といくら説明しても 
まったく取り合わなかったとか 
残念ながら自分が生まれる前に祖父は亡くなったので他に特高の話は知らん
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1: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/05(日) 12:05:38.67 ID:ARhXfPtU0.n
さらに約40年後「アメリカに負けて全部なくなったんじゃwwwww」

なんやこの国…
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2: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/05(日) 12:06:13.10 ID:U/TDdVBx0.n
幕末からの発展ぐう半端ない

3: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/05(日) 12:07:07.69 ID:DifNnDeLp.n
濃すぎる100年間

6: 幕末まとめ  投稿日:2015/07/05(日) 12:07:25.42 ID:3V/zXGiT0.n
さらに40年後「経済大国になったじゃ」


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1: 幕末まとめ  投稿日:2015/04/07(火) 17:46:24.54
戦後70年、中国は自らが犯した戦争犯罪をひた隠しにしてきた。その一つが、多数の在留邦人が
虐殺された「通州事件」だ。残されたわずかな記録からその封印を解く。

その凄惨な事件は、日中が本格的な軍事衝突を始めた盧溝橋事件(*注1)直後の1937年7月29日、
北平(現在の北京)近郊の通州で発生した。

【*注1/1937年7月7日、日本軍と中国の国民党軍の間で起きた武力衝突事件。中国共産党軍が
事件を誘発させたとの説が有力となっている】

当時、満州国と隣接する中国・河北省には、蒋介石の国民党政府から独立し日本人が実質統治
していた「冀東(きとう)防共自治政府」が置かれていた。自治政府は九州と同程度の面積で、人口
はおよそ700万人。「首都」である通州には400人近い日本人が暮らしていた。自治政府の首班は、
日本への留学経験もあり、日本人の妻を持つ親日派の殷汝耕(いんじょこう)。通州には邦人保護
を目的とする日本軍守備隊も駐留しており、比較的、治安は良好だった。

ところが、突如として自治政府の中国人保安隊約3000名が武装蜂起し、首班の殷汝耕を拉致した
上で日本軍守備隊と日本人居留民を奇襲したのである。事件当時、通州に滞在していた米国人
ジャーナリスト、フレデリック.V.ウィリアムズ氏は、惨劇の様子を自著『Behind the news in China』
(1938年)で克明に綴っている。

「それは一九三七年七月二十九日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、
子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊
ギャングどもに襲い掛かられた。

それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人
が彼らを発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった(中略)何時間も女子供の
悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」(訳書『中国の戦争宣伝の内幕』
芙蓉書房出版刊・田中秀雄訳)

事件の当日、日本軍守備隊の主力は南苑での作戦(*注2)に投入されており、通州に残る守備隊
はわずか100名に過ぎなかった。守備隊は30名の兵を失いながらも必死の反撃を続けたが、翌日、
日本軍の応援部隊が現地入りするまでに、223名(防衛庁編纂『戦史叢書・支那事変陸軍作戦1』より。
260名~300名とする説もある)の邦人が虐殺された。

【*注2/日中戦争初期の戦闘「平津作戦」のひとつ】

ソース:NEWSポストセブン 2015.04.07 16:00
http://www.news-postseven.com/archives/20150407_314163.html
http://www.news-postseven.com/archives/20150407_314163.html?PAGE=2
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【中国】日本人200人超虐殺の通州事件、中国指摘する南京事件と酷似★2[04/06]
/r/2ch.sc/news4plus/1428315865/

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1: 日本@名無史さん 投稿日:2012/03/21(水) 04:40:24.04
あったかもしれないし、なかったかもしれないな。

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