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タグ:坂本龍馬

1: 名無しさん
"龍馬が血判押した誓約書発見 高知の記念館、展示へ"

坂本龍馬が25歳で土佐藩の西洋流砲術家・徳弘孝蔵に入門した際に血判を押した
起請文(きしょうもん)と呼ばれる誓約書が見つかった。高知県立坂本龍馬記念館(高知市)が
24日、発表した。龍馬の血判はほかに見つかっておらず、貴重な資料だという。

徳弘家は土佐藩の「御持筒役」を務めた家系。孝蔵は藩主の命令で、高島秋帆(しゅうはん)の
流れをくむ西洋流砲術を学んだ。誓約書の存在は知られていたが、長く所在不明になっていた。
記念館は、25日から8月末まで誓約書を展示する。

誓約書には1842~63年に216人が署名したとみられ、龍馬のほか、
後に土佐勤王党を率いる武市(たけち)半平太や、半平太に師事した岡田以蔵、
龍馬の兄の権平も名を連ねる。箱入りの巻物で、幅約19センチ、長さ約13・4メートル。
入門者が「学んだことを一切口外しない」などと誓っていた。

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http://www.asahi.com/culture/update/0724/OSK201307240044.html

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1: ◆sRJYpneS5Y 2015/01/17(土)16:01:06 ID:???
 「悲運」という言葉がこれほど似つかわしい大名はいない。長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)。
土佐22万石の跡目を継いだ翌年の慶長5(1600)年に起きた天下分け目の関ケ原の戦いで、
徳川家康率いる東軍にくみする方針を立てながら、手違いから西軍に回って敗軍となり、領国を没収され
〝牢人〟に。豊臣方についた慶長20年の大坂夏の陣で対峙(たいじ)したのは、旧家臣が多く召し抱えられた
藤堂高虎隊だった-。悲運の人生は斬首で幕を下ろすが、最期まで再起の夢を捨てない意地をみせた。(川西健士郎)

 盛親は土佐を統一した長宗我部元親(もとちか)の四男。長男・信親(のぶちか)が戦死すると、
元親は次男・親和(ちかかず)、三男・親忠(ちかただ)を飛ばして、盛親を跡目に据える方針を決める。
慶長4(1599)年、元親の死とともに大名となった。

 翌年の関ケ原の戦いでは当初、東軍に味方する方針だったが、家康に密書を届けることに失敗。西軍につかざるを得なくなり、
まともに戦わないまま敗軍に。さらに兄の親忠を自殺に追い込んだとして家康の怒りを買って領国を没収され、
「牢人大名」と呼ばれる身に転落した。

 京都・相国寺の近くに閑居。牢人生活14年を経た慶長19年、徳川方と豊臣方が衝突した大坂冬の陣では、
豊臣秀頼から「大坂方の勝利の暁には土佐一国を拝領する」と打診を受け、集結した元家臣ら大軍を率いて大坂城に入った。

剛毅(ごうき)な牢人大名が真価を発揮したのは翌年の5月6日、夏の陣で屈指の激戦として知られる
八尾・若江の戦いだ。豊臣家重臣の木村重成とともに主力軍勢で徳川方の藤堂高虎隊と激突。高虎隊には皮肉にも
旧家臣や幼なじみらも参戦していたが、家老6人を倒すなど壊滅寸前に追い込んだ。

 この戦いについて、八尾市立歴史民俗資料館の小谷利明館長は「高虎隊に勝つことだけを目的とした戦い方ではなかった」と語る。
根拠は江戸時代の古地図を分析して見えてきた両軍の進軍経路だ。

 「一帯は湿地帯だったため、両軍は馬1頭がやっと通れる道を進んだ。盛親隊は2手に分かれ、1手は高虎隊に、
主力は家康のいる北東方向に向かったと考えることができる」

 家康に狙いを定めていた盛親。だが、徳川方の井伊直孝隊が援軍に駆けつけたため形勢逆転。重成も戦死して味方が敗走を始めた。
「なるほど存分に勝つことができたが、そのときすでに味方は総くずれになっていたとは、なんというおかしさだろう」。
司馬遼太郎の小説「戦雲の夢」の主人公、盛親は自嘲するように笑った。

 翌日、大坂城が炎上すると京都へ逃走するも途中の八幡で捕らえられる。「出家するから」と命ごいまでしたとされるが、
京の六条河原で斬首された。

 生に執着した真意は何だったのか。自害しなかったことを嘲(あざけ)る徳川方の将兵にこんな言葉を残した。
「命と右の手さえあれば、家康や秀忠を同じ目にあわせられた」「折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」…。

 享年41。最期は死に臆することなく、立派な態度で処刑に臨んだという。

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