1: 名無しさん@おーぷん 2015/02/23(月)21:10:17
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松前 崇広(まつまえ たかひろ)は、江戸時代末期の外様大名で、蝦夷松前藩の第12代藩主。のちに老中にもなった。名は正字では崇廣

文政12年(1829年)11月15日、蝦夷松前藩9代藩主・松前章広の六男として、福山城で生まれる。幼少期は武術、とくに馬術を得意とし、また藩内外の学識経験者を招聘して蘭学、英語、兵学を学び、さらには西洋事情、西洋の文物に強い関心を抱き、電気機器、写真、理化学に関する器械を使用するなど、西洋通であった。

崇広の甥で第11代藩主の松前昌広が病気で、昌広の嫡男の徳広はまだ幼少であったので、嘉永2年(1849年)6月9日、昌広の隠居によりその養子として家督を相続し、第12代藩主となった。崇広は家督相続の挨拶のために、7月江戸に出府し、第12代将軍・家慶に御目見し、従五位下、伊豆守に叙位・任官され、また北方警備強化のため、新たに城を築城するよう命じられ、これにより陣屋住まいから城主とされた。この城は嘉永6年(1853年)に完成し、松前城と呼ばれ、天守閣持ちの伝統的な建築技法を使った城としては江戸時代最後の城となった。

安政元年(1854年)6月、幕府は対露警備強化の観点から箱館奉行を再設置し、安政2年(1855年2月23日にはそれまで松前藩領だった箱館周辺8ヶ村と全蝦夷地を幕府直轄とした。代地として陸奥伊達郡梁川、出羽村山郡東根、出羽尾花沢に合計4万石を与えられ、毎年18,000両を下賜されることになったが、それまでの蝦夷地での交易権を喪失した。このため藩財政は窮乏することになる。また、折しもこの年は漁が不漁であり、その原因を巡って場所請負人と中小漁民が衝突する網切騒動が発生し、松前藩・江戸幕府を巻き込んだ騒動となった。 

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