幕末ちゃんねる

幕末史中心の2chまとめサイト

タグ:幕末

200px-Masujiro_Omura_cropped
1: 幕末まとめ 2017/02/21(火) 20:37:44.63 BE:194767121-PLT(12001) ポイント特典
長州方に属した薩摩脱藩士
https://373news.com/_bunka/jikokushi/?storyid=8387

22: 幕末まとめ 2017/02/21(火) 21:07:18.78 
>>1 
実際にそう言ったかどうかは分からんけど 
新しく政府を統一して 
これから近代国家の常備軍を作ろうという時に、 
閉鎖的で独自の思想で動いてるような屈強な薩摩軍は 
絶対邪魔になると思ったんだろうな。 
薩摩が反乱を起こすことを想定して 
大村益次郎は軍事施設を大阪や京都に置いたり 
四斤砲を密かに大量に製造しとくよう命じるなど 
死ぬ前に様々な対策をしている。 


27: 幕末まとめ 2017/02/21(火) 21:11:40.18 
>>22 
西郷も西郷で自分の歴史的役割は武士の世の終わりの生贄って解ってたと思うけどな 


5: 幕末まとめ 2017/02/21(火) 20:42:11.89 
上野口の攻め方を薩軍に割り振ったときの話かな 
史料残ってるんだっけ? 

続きを読む

1: 幕末まとめ  2017/02/02(木) 06:36:42.52 _USER9
土佐藩士吉田東洋が安政地震の様子をつづった漢詩「大震行」(高知県立歴史民俗資料館提供)
no title


 土佐藩の改革を推し進めた藩士吉田東洋(1862年暗殺)が、54年12月の安政地震を体験した様子をつづった漢詩など新史料10点が、高知県南国市の県立歴史民俗資料館の保管史料の中から見つかった。野本亮学芸課長は「大津波が訪れる前の描写が非常に細かく、地震学的な面からも参考になるところが多いのでは」と分析。同館で29日から公開されている。

 新たに見つかったのは漢詩2点と教本2点、直筆の手紙6点の計10点。昨年、企画展の準備のため、過去に寄贈されていた史料を再調査する中で発見されたという。

 安政地震の直後に書いたとみられる「大震行」(縦125センチ、横55センチ)と題された漢詩には、「海底は墨をひっくり返したように濁る」「干満の動きは急である」など津波前の様子を記したとみられる部分や、「圧死者と焼死者が丘のように積み重なっている」などの趣旨が記され、太平洋に面した高知市長浜で体験した被害の状況を生々しく伝えている。

 当時、東洋は土佐で閉居中の身だった。詩には藩政の在り方に言及する一節もあり、野本課長は「東洋の非常に細かい性格とともに、政治の世界に復活しようとする内面が読み取れる貴重な史料だ」と話している。

 1854年の安政地震は東南海(東海も含む)の32時間後に南海地震が発生。内閣府の調査によると、一連の地震で数千人が犠牲になったとされる。

 新史料は5月10日まで、同館の企画展「幕末の土佐 書跡にみる人物群像」で公開される。

http://www.sankei.com/west/news/170129/wst1701290061-n1.html

2: 幕末まとめ  2017/02/02(木) 06:41:24.27 
長浜かよ 
たしかに津波来たら更地だわ
 
53: 幕末まとめ  2017/02/04(土) 17:23:02.17
なんで思想としては開国に近いのに殺されちゃうんかね

やはり鎖国維持勤皇とかいってる
勤皇党が間違ってたんじゃ


続きを読む

1: 名無しさん 2017/02/12(日) 23:43:18.90 _USER
徳川宗家18代当主 徳川恒孝(とくがわ・つねなり)さん/1940年、東京生まれ。学習院大学卒業後、日本郵船に入社し、副社長などを歴任。2003年、徳川記念財団を設立し、理事長に就任(撮影/写真部・長谷川唯)
no title


 薩長同盟、坂本龍馬の船中八策、土佐藩主の山内容堂が徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜へ出した建白書、そして大政奉還、龍馬暗殺……。2017年で大政奉還から150年。幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、徳川宗家18代当主・徳川恒孝さんだ。

 *  *  *

 大政奉還として徳川家が天皇家に政権をお戻ししたのは、徳川幕府に大きな問題があったり、政権維持に限界があったりしたからではないと考えています。

 当時、日本を取り巻く外国からさまざまな圧力がかかっていました。その流れに任せてそれぞれの藩が圧力をかける国に個別に対応していたら、日本は分断されていたかもしれません。

 そこでそれぞれの藩が領内を支配する幕藩体制ではやっていけないと幕府は判断したのです。

 徳川家は幕府開府以来、長く天皇家を非常に大切にしてきましたので、ここで天皇家に政権をお戻しして、天皇を中心に今一度日本を統一すべきだと考えたのです。

 さらに徳川幕府は常に海外の情報を得ていました。特に幕末にかけては詳細な情報が幕府に入ってきて、世界の情勢は承知していたのです。イギリスの軍艦が近くにいるとか、アメリカの戦艦が日本に向かっているなど把握していました。そこで世界を見て、もう二度と戦乱の世にしてはならないと考え、大政奉還という決断をしました。

 江戸幕府を起こした家康は常に平和を願い、それを実現させた人です。家康の前の時代、豊臣秀吉は朝鮮へ2度も兵を出しました。 しかし、徳川の世になると朝鮮をはじめとした外国を攻めることはなくなりました。それどころか、朝鮮通信使が再開され友好な関係を築きました。幕府の将軍の代替わりや世継ぎが生まれるたびに朝鮮から使節団が江戸城にいる将軍に謁見にやってきていました。

 ただ、これは徳川家からの見方で、向こうの方々に言わせると、今度の将軍がまた秀吉のような人だったら危ないと、警戒のために将軍の顔を見に来ていたというようです。それで今度の将軍は穏やかでこちらに戦争をしかけてくるようなことはないと安心して帰ったそうです。

 そしてその情報は朝鮮から清の都・北京に伝えられ、今度の将軍も大丈夫だと胸をなでおろしたといいます。それだけ諸国との関係はよかったのです。

 ただ幕末から大政奉還にかけて残念なのは井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたことです。井伊直弼は海外の状況を鑑み、修好通商条約を締結し、日本を開くことを進めていました。だからあのとき直弼が殺されなかったら、徳川幕府が新たな日本をつくっていったでしょうね。

 徳川政権であったら平和一本で、その後の政府がとったような軍国主義政策はとらなかったに違いありません。明治新政府では征韓論が持ち上がり、その後も日清戦争、日露戦争が起きました。明治以降の歴史はご存じのとおりですね。

 明治の世になって諸藩の大名の子息の多くは海外に留学しました。そしてその人たちは海外の情報や知識を身に着け、明治以降の政府に重用されていきます。

 また、宮内省が大名家同士の婚姻を進めていきました。戊辰戦争で敵対した人の子孫を結びつけたり、かつて、あまり関係がよくなかったという同士の婚姻を決めたりしました。そうすることでそれぞれの家が背負ってきた変なわだかまりはなくなりました。

 大政奉還後、徳川幕府の幕臣が明治政府を支えたり、その後、全国にあった藩の大名の子孫の方々が地域のお祭りに参加して祭りを盛り上げたりしています。かつての殿様の子孫は地域活性化に協力しているといえるでしょう。

 そういう意味でも徳川時代が分断され明治時代になったのではなく、その意志を受け継ぎ、継続しているといってもいいかもしれません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)

http://dot.asahi.com/wa/2017020900090.html
65: 名無しさん 2017/02/13(月) 11:28:18.92 
家康の肖像画に似てるなぁ。 

2: 名無しさん 2017/02/12(日) 23:49:23.61 
>>1 
大政奉還と明治維新で悔しいです 

ってだけやん。素直にそれだけ言えよ、 

たまたま関ヶ原で勝っただけの分際で。 

77: 名無しさん 2017/02/13(月) 15:22:41.20 
>>2 

黙れ小童!


続きを読む

be4224e39b8abf15ea0315c32a7d8dc2
1: 幕末まとめ 2017/02/14(火) 18:09:45.14 ● BE:583472408-PLT(14015) ポイント特典
小中社会科、「鎖国」消える…次期学習指導要領

読売新聞 2/14(火) 17:03配信

 「鎖国」が消える――。

 文部科学省が14日に公表した次期学習指導要領の改定案では、小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。
中学歴史でも史料に忠実に、「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」に変更する。

 文科省によると、これまで小中学校社会科の学習指導要領では「鎖国」が使われてきた。
しかし、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許しており、薩摩(鹿児島県)など3か所でも外交と貿易が行われ、完全に国を閉ざしていなかったことから、実態に即した表記にする。

 文科省の担当者は「当時、鎖国という言葉は使われていなかったので、正しい言い方にした」としている。

 また、現行の中学歴史の指導要領にある「聖徳太子」は、「厩戸王(聖徳太子)」に改める。ただ、小学校ではなじみがあるとして、「聖徳太子(厩戸王)」の表記にする。
実際の教科書では、すでにこうした変化は現れている。

 一方、小中学校の体育などでは「不安や悩み」「ストレス」への対処法を学ぶことが新たに明記された。

今後、深呼吸して気持ちを落ち着かせる「呼吸法」や、体をリラックスさせる方法などが指導要領の解説書に盛り込まれる見通しだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170214-00050142-yom-soci

10: 幕末まとめ 2017/02/14(火) 18:11:14.99
限定的な外交、交易を行ってたということね
いいんじゃないかな

13: 幕末まとめ 2017/02/14(火) 18:11:48.36
そりゃ結構貿易してたからな
制限してただけで閉鎖してたわけではない

325: 幕末まとめ 2017/02/15(水) 03:36:17.31
>>1
江戸時代に中国なんかねーだろが。
中国を略称とした中華民国の成立は1912年だ。便宜上中華人民共和国としても、今の中国が江戸時代からあったと錯覚させるような紛らわしい書き方はやめろ。
しかも教科書なんだから。


続きを読む

main3
1: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 13:16:59.09 BE:565421181-PLT(12000) ポイント特典
明治150年 歴史に向きあう誠実さ


来年は明治元年から数えて満150年にあたる。

 政府は記念の施策を行うことを決め、明治期に関する文書・写真の収集とデジタル化、活躍した若者や女性の
発掘、ゆかりのある建築物の公開などにとり組むよう、各省庁に指示した。

 気になるのは、全体をつらぬく礼賛ムードだ。

 政府は「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」とうたう。「明治の精神」とは何か。列記されているのは機会の
平等、チャレンジ精神、和魂洋才だ。

一方で富国強兵の国策の下、生命を失い人権を侵された内外の大勢の市民、破壊された自然、失われた文化が
あるのも事実だ。
 歴史の光の部分のみ見て、影から目を背けるのはごまかしであり、知的退廃に他ならない。
「坂の上の雲」を追いかけ、近代化をなしとげた歩みだけが強調されている。

 関連で注意すべき動きもある。文化の日を「明治の日」に改称させようという運動だ。

こうした経緯を踏まえず、「明治の栄光」を訴えるふるまいには、時代錯誤の一言で片づけられない危うさを感じる。

http://www.asahi.com/paper/editorial2.html
37: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 13:42:55.21 
>>1 
明治以後近代制度を取り入れ日露戦争の勝利があったからこそ紆余曲折はあったにしろ日本とアジア諸国はここまでなれたんだがな 
明治維新を否定する事は黄色人種の民族自決を否定するのと同じ 

48: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 13:52:25.42 
>>1 
> 関連で注意すべき動きもある。文化の日を「明治の日」に改称させようという運動だ 

どうでもいいけれど 
文化の日は元々明治節(つうか天長節←明治天皇の誕生日)であって 
憲法とか文化とは何の関係もない 

67: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 14:10:04.21 
>>48 
多分、知らなかったんだろうね 
すこし調べれば理由わかるのに


続きを読む

↑このページのトップヘ