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1: 名無しさん 2017/02/12(日) 23:43:18.90 _USER
徳川宗家18代当主 徳川恒孝(とくがわ・つねなり)さん/1940年、東京生まれ。学習院大学卒業後、日本郵船に入社し、副社長などを歴任。2003年、徳川記念財団を設立し、理事長に就任(撮影/写真部・長谷川唯)
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 薩長同盟、坂本龍馬の船中八策、土佐藩主の山内容堂が徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜へ出した建白書、そして大政奉還、龍馬暗殺……。2017年で大政奉還から150年。幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、徳川宗家18代当主・徳川恒孝さんだ。

 *  *  *

 大政奉還として徳川家が天皇家に政権をお戻ししたのは、徳川幕府に大きな問題があったり、政権維持に限界があったりしたからではないと考えています。

 当時、日本を取り巻く外国からさまざまな圧力がかかっていました。その流れに任せてそれぞれの藩が圧力をかける国に個別に対応していたら、日本は分断されていたかもしれません。

 そこでそれぞれの藩が領内を支配する幕藩体制ではやっていけないと幕府は判断したのです。

 徳川家は幕府開府以来、長く天皇家を非常に大切にしてきましたので、ここで天皇家に政権をお戻しして、天皇を中心に今一度日本を統一すべきだと考えたのです。

 さらに徳川幕府は常に海外の情報を得ていました。特に幕末にかけては詳細な情報が幕府に入ってきて、世界の情勢は承知していたのです。イギリスの軍艦が近くにいるとか、アメリカの戦艦が日本に向かっているなど把握していました。そこで世界を見て、もう二度と戦乱の世にしてはならないと考え、大政奉還という決断をしました。

 江戸幕府を起こした家康は常に平和を願い、それを実現させた人です。家康の前の時代、豊臣秀吉は朝鮮へ2度も兵を出しました。 しかし、徳川の世になると朝鮮をはじめとした外国を攻めることはなくなりました。それどころか、朝鮮通信使が再開され友好な関係を築きました。幕府の将軍の代替わりや世継ぎが生まれるたびに朝鮮から使節団が江戸城にいる将軍に謁見にやってきていました。

 ただ、これは徳川家からの見方で、向こうの方々に言わせると、今度の将軍がまた秀吉のような人だったら危ないと、警戒のために将軍の顔を見に来ていたというようです。それで今度の将軍は穏やかでこちらに戦争をしかけてくるようなことはないと安心して帰ったそうです。

 そしてその情報は朝鮮から清の都・北京に伝えられ、今度の将軍も大丈夫だと胸をなでおろしたといいます。それだけ諸国との関係はよかったのです。

 ただ幕末から大政奉還にかけて残念なのは井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたことです。井伊直弼は海外の状況を鑑み、修好通商条約を締結し、日本を開くことを進めていました。だからあのとき直弼が殺されなかったら、徳川幕府が新たな日本をつくっていったでしょうね。

 徳川政権であったら平和一本で、その後の政府がとったような軍国主義政策はとらなかったに違いありません。明治新政府では征韓論が持ち上がり、その後も日清戦争、日露戦争が起きました。明治以降の歴史はご存じのとおりですね。

 明治の世になって諸藩の大名の子息の多くは海外に留学しました。そしてその人たちは海外の情報や知識を身に着け、明治以降の政府に重用されていきます。

 また、宮内省が大名家同士の婚姻を進めていきました。戊辰戦争で敵対した人の子孫を結びつけたり、かつて、あまり関係がよくなかったという同士の婚姻を決めたりしました。そうすることでそれぞれの家が背負ってきた変なわだかまりはなくなりました。

 大政奉還後、徳川幕府の幕臣が明治政府を支えたり、その後、全国にあった藩の大名の子孫の方々が地域のお祭りに参加して祭りを盛り上げたりしています。かつての殿様の子孫は地域活性化に協力しているといえるでしょう。

 そういう意味でも徳川時代が分断され明治時代になったのではなく、その意志を受け継ぎ、継続しているといってもいいかもしれません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)

http://dot.asahi.com/wa/2017020900090.html
65: 名無しさん 2017/02/13(月) 11:28:18.92 
家康の肖像画に似てるなぁ。 

2: 名無しさん 2017/02/12(日) 23:49:23.61 
>>1 
大政奉還と明治維新で悔しいです 

ってだけやん。素直にそれだけ言えよ、 

たまたま関ヶ原で勝っただけの分際で。 

77: 名無しさん 2017/02/13(月) 15:22:41.20 
>>2 

黙れ小童!


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1: 幕末まとめ 2017/02/14(火) 18:09:45.14 ● BE:583472408-PLT(14015) ポイント特典
小中社会科、「鎖国」消える…次期学習指導要領

読売新聞 2/14(火) 17:03配信

 「鎖国」が消える――。

 文部科学省が14日に公表した次期学習指導要領の改定案では、小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。
中学歴史でも史料に忠実に、「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」に変更する。

 文科省によると、これまで小中学校社会科の学習指導要領では「鎖国」が使われてきた。
しかし、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許しており、薩摩(鹿児島県)など3か所でも外交と貿易が行われ、完全に国を閉ざしていなかったことから、実態に即した表記にする。

 文科省の担当者は「当時、鎖国という言葉は使われていなかったので、正しい言い方にした」としている。

 また、現行の中学歴史の指導要領にある「聖徳太子」は、「厩戸王(聖徳太子)」に改める。ただ、小学校ではなじみがあるとして、「聖徳太子(厩戸王)」の表記にする。
実際の教科書では、すでにこうした変化は現れている。

 一方、小中学校の体育などでは「不安や悩み」「ストレス」への対処法を学ぶことが新たに明記された。

今後、深呼吸して気持ちを落ち着かせる「呼吸法」や、体をリラックスさせる方法などが指導要領の解説書に盛り込まれる見通しだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170214-00050142-yom-soci

10: 幕末まとめ 2017/02/14(火) 18:11:14.99
限定的な外交、交易を行ってたということね
いいんじゃないかな

13: 幕末まとめ 2017/02/14(火) 18:11:48.36
そりゃ結構貿易してたからな
制限してただけで閉鎖してたわけではない

325: 幕末まとめ 2017/02/15(水) 03:36:17.31
>>1
江戸時代に中国なんかねーだろが。
中国を略称とした中華民国の成立は1912年だ。便宜上中華人民共和国としても、今の中国が江戸時代からあったと錯覚させるような紛らわしい書き方はやめろ。
しかも教科書なんだから。


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1: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 13:16:59.09 BE:565421181-PLT(12000) ポイント特典
明治150年 歴史に向きあう誠実さ


来年は明治元年から数えて満150年にあたる。

 政府は記念の施策を行うことを決め、明治期に関する文書・写真の収集とデジタル化、活躍した若者や女性の
発掘、ゆかりのある建築物の公開などにとり組むよう、各省庁に指示した。

 気になるのは、全体をつらぬく礼賛ムードだ。

 政府は「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」とうたう。「明治の精神」とは何か。列記されているのは機会の
平等、チャレンジ精神、和魂洋才だ。

一方で富国強兵の国策の下、生命を失い人権を侵された内外の大勢の市民、破壊された自然、失われた文化が
あるのも事実だ。
 歴史の光の部分のみ見て、影から目を背けるのはごまかしであり、知的退廃に他ならない。
「坂の上の雲」を追いかけ、近代化をなしとげた歩みだけが強調されている。

 関連で注意すべき動きもある。文化の日を「明治の日」に改称させようという運動だ。

こうした経緯を踏まえず、「明治の栄光」を訴えるふるまいには、時代錯誤の一言で片づけられない危うさを感じる。

http://www.asahi.com/paper/editorial2.html
37: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 13:42:55.21 
>>1 
明治以後近代制度を取り入れ日露戦争の勝利があったからこそ紆余曲折はあったにしろ日本とアジア諸国はここまでなれたんだがな 
明治維新を否定する事は黄色人種の民族自決を否定するのと同じ 

48: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 13:52:25.42 
>>1 
> 関連で注意すべき動きもある。文化の日を「明治の日」に改称させようという運動だ 

どうでもいいけれど 
文化の日は元々明治節(つうか天長節←明治天皇の誕生日)であって 
憲法とか文化とは何の関係もない 

67: 幕末めとめ 2017/02/11(土) 14:10:04.21 
>>48 
多分、知らなかったんだろうね 
すこし調べれば理由わかるのに


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1: 幕末まとめ  2014/05/09(金) 14:36:04.87 0
幕府や明治政府から迫害を受けても密かに異国の神を信じ続けた
彼等は隠れながら(他人の目を欺きながら)自分が信じた物を護り通し生き抜いた

彼等が後に命懸けでキリシタンである事を名乗り出た行為がキッカケで
明治政府の弾圧が諸外国からの反感を買い
今の日本の信教の自由へと繋がった

神って目に見えるものじゃないし形あるものでもない
漠然とした救いに命を掛ける事が良い事か悪い事かは置いておき
彼等の勇気ある声と勇気ある行動が政府を動かした事実には素直に感心しちゃう

今で言うとスパイダーマンやスーパーマンみたいな生き様だよ
本当の素顔は正義のヒーローだけど普段は冴えない一般人を装ってる
しかし揺るがない信念と己の正義を決して失わない

俺たちはご先祖様の様々な勇気ある行動の延長線上に生きてる
平和が当たり前 自由が当たり前だと思えるのは全て血を流し戦ってくれたご先祖様のおかげだね
自由と平和を受け継いだ俺たちは
これからどんな世界を子孫に遺していけるのかちょっとワクワクしちゃうね

7: 幕末まとめ  2014/05/09(金) 14:42:52.58 0
つまらないしまったくワクワクしないので終了 


8: 幕末まとめ  2014/05/09(金) 14:46:20.34 0
日本とタイは国を守って宗教も守った 

ほかの植民地を見てみろ?
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1: 名無しさん 2017/02/01(水) 05:21:05.54 _USER9
子供がいないことを理由にした離縁状(群馬県立文書館提供)
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 江戸時代、子供がいないことを理由に夫が妻に渡した「三行半(みくだりはん)」(離縁状)が、三行半研究の第一人者の群馬県太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長、高木侃(ただし)さん(75)の調査で初めて見つかった。三行半は離縁理由を記載しない例が多く、高木さんは「極めて貴重な史料だ」と驚いている。

 この三行半は安政5(1858)年7月、道之助がおげんに宛てたもの。文中「未ダ一子もこれなく(中略)今般利(離)縁致候」と記載されている。

 高木さんの研究によると、江戸時代の離縁状は離縁する理由を書いていないものが最も多く、次いで、現代の一身上の都合に当たる「我等勝手」など抽象的表現にとどまっているのが一般的。親権の所在が記載されているケースはまれにあるという。

 この三行半は高木さんが調査中に太田市内の旧家で偶然見つけたもので、群馬県立文書館(前橋市)に寄託された。

 高木さんはこれまで、約1300通の三行半を調査している。

 「夫がよほど、子供を欲しかったのかもしれない」と話している。

http://www.sankei.com/life/news/170129/lif1701290011-n1.html

2: 名無しさん 2017/02/01(水) 05:22:29.96 
石女は離縁されて当然 


95: 名無しさん 2017/02/01(水) 09:46:50.06 
>>2 
夫の方に原因がある場合も多いよ 
豊臣秀吉みたいに 


101: 名無しさん 2017/02/01(水) 11:40:43.85 
>>2 
いまでこそ男性側にも不妊の原因があることかわかったが 
当時は女のせいだと思われていたからな
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