1: 幕末まとめ 2015/12/07(月) 18:41:09.05 ID:CAP_USER*.net
幕末の第9代会津藩主で、京都守護職を務めた松平容保(かたもり)(1835~1893)と、江戸幕府最後の将軍
徳川慶喜の実弟で容保の養子として第10代会津藩主となった松平喜徳(のぶのり)(1855~1891)の写真が
青森県内の旧会津藩士の子孫方から見つかったことが4日、分かった。
いずれも現存数が少なく、発見した幕末史家の伊藤哲也氏(46)=さいたま市=によると貴重な史料という。
戊辰戦争で敗れた旧会津藩は1869(明治2)年11月、青森県で斗南藩として再興が許された。
写真は移住した旧藩士の子孫方の蔵から7月に発見された。
伊藤氏によると、喜徳の写真は全国に5種類しかなく、今回の構図は初めて見つかった。
容保の写真は全国に約20種類あり、今回の写真はこれまでにほかの場所でも確認されている。
どちらも明治期の印画紙「鶏卵紙」が使われ、明治はじめに東京の写真館で撮影されたとみられる。
伊藤氏は「旧会津藩士に配った写真の一つ」とみている。
会津若松市の郷土史家・野口信一氏(66)=会津歴史考房主宰=は
「どちらの写真も貴重なもので、受け取った旧藩士は心のよりどころとして大切にしていただろう」とした。
写真を所有していた男性は、「先祖に思いをはせる史料だ」と話した。
■戦死者記録文書も
会津で戊辰戦争が終結した翌月の1868(明治元)年10月時点の会津藩の戦死者数と場所(計574人、64カ所)が記された古文書も発見された。
敗戦直後から記録され、埋葬に関わった藩士・武田源三らの署名があった。武田は今回写真などが発見された家の先祖。
69年に会津坂下町で新政府の元役人が殺害された「束松(たばねまつ)事件」の実行犯で行方不明とされ、伊藤氏は「武田を知る手がかり」とみている。
引用元:http://www.minyu-net.com/news/news/FM20151205-033170.php
徳川慶喜の実弟で容保の養子として第10代会津藩主となった松平喜徳(のぶのり)(1855~1891)の写真が
青森県内の旧会津藩士の子孫方から見つかったことが4日、分かった。
いずれも現存数が少なく、発見した幕末史家の伊藤哲也氏(46)=さいたま市=によると貴重な史料という。
戊辰戦争で敗れた旧会津藩は1869(明治2)年11月、青森県で斗南藩として再興が許された。
写真は移住した旧藩士の子孫方の蔵から7月に発見された。
伊藤氏によると、喜徳の写真は全国に5種類しかなく、今回の構図は初めて見つかった。
容保の写真は全国に約20種類あり、今回の写真はこれまでにほかの場所でも確認されている。
どちらも明治期の印画紙「鶏卵紙」が使われ、明治はじめに東京の写真館で撮影されたとみられる。
伊藤氏は「旧会津藩士に配った写真の一つ」とみている。
会津若松市の郷土史家・野口信一氏(66)=会津歴史考房主宰=は
「どちらの写真も貴重なもので、受け取った旧藩士は心のよりどころとして大切にしていただろう」とした。
写真を所有していた男性は、「先祖に思いをはせる史料だ」と話した。
■戦死者記録文書も
会津で戊辰戦争が終結した翌月の1868(明治元)年10月時点の会津藩の戦死者数と場所(計574人、64カ所)が記された古文書も発見された。
敗戦直後から記録され、埋葬に関わった藩士・武田源三らの署名があった。武田は今回写真などが発見された家の先祖。
69年に会津坂下町で新政府の元役人が殺害された「束松(たばねまつ)事件」の実行犯で行方不明とされ、伊藤氏は「武田を知る手がかり」とみている。
引用元:http://www.minyu-net.com/news/news/FM20151205-033170.php
3: 幕末まとめ 2015/12/07(月) 18:43:08.59 ID:fs8ZFM+90.net
写真は見せてくれないのか
56: 幕末まとめ 2015/12/07(月) 21:06:58.36 ID:XIezO/9a0.net
>>3
ネットに自分の顔写真あげるとか、どこの情弱だよ。
ネットに自分の顔写真あげるとか、どこの情弱だよ。
29: 幕末まとめ 2015/12/07(月) 19:28:54.56 ID:1V4os+0q0.net
>>1
ttp://www.chunichi.co.jp/s/article/images/2015120601001413.jpg
明治維新後に青森県に移住した旧会津藩士の子孫宅に
保管されていた松平容保の肖像写真
ttp://www.chunichi.co.jp/s/article/images/2015120601001413.jpg
明治維新後に青森県に移住した旧会津藩士の子孫宅に
保管されていた松平容保の肖像写真