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タグ:福沢諭吉


1: 名無しさん 2016/07/27(水) 23:55:02.09 _USER
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引用元:毎日新聞 2016年7月27日 地方版
http://mainichi.jp/articles/20160727/ddl/k44/040/266000c
引用元:大分合同新聞 2016年7月27日 朝刊
http://www.oita-press.co.jp/1010000000/2016/07/27/003223450

西日本では唯一

 明治の思想家・福沢諭吉(1835~1901年)が書いた「学問のすゝめ」の初版本が、諭吉が少年時代を過ごした中津市で見つかった。郷土史研究家だった故・今永正樹さん(1906~88年)の妻百合子さん(86)=同市在住=が市歴史民俗資料館へ寄贈した郷土資料約1600点に含まれており、市が26日に発表した。【大漉実知朗】

 「学問のすゝめ」の初版本は現在、慶応義塾福澤研究センターが3冊所蔵。また東大付属近代日本法政史料センターなどに計5冊ある。今回は9冊目の発見で、西日本では唯一だという。

 市社会教育課文化財室の学芸員、曽我俊裕さん(26)によると、見つかった本(縦18センチ、横11・5センチ)の保存状態は良好。文字に凹凸があり、鉛活字による活版印刷だったことが決め手になった。

 寄贈された資料には当時の最先端技術だった活版印刷で増刷が追いつかず、2版以降に木版へ切り替えた一回り小さい本もあった。活版と木版の比較もできる貴重な資料だ。

 「学問のすゝめ」は明治5(1872)から9(1876)年に17の小冊子シリーズとして出版された。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な言葉は初編の冒頭にある。

 福澤研究センターの西沢直子教授は「当時の大ベストセラーで、現存する多くは再版された木版本。活版による初版本は極めて珍しい。初編は元々、中津の人たちに宛てたメッセージだったので、中津の旧家から見つかったことは意義深い」。曽我さんは「最後のページに『京町 中村』と書かれており、今永さんが地元の中村さんという人から譲り受けたのでは」と話す。

 県立先哲史料館の大津祐司館長(日本近世史)によると、「学問のすゝめ」は諭吉が設立に尽力した中津市学校の生徒に向け、学問の極意をつづったものとされる。「立派な教えの言葉だったので増版を重ね、全国に広まった。その初版本が中津にあったとは」と驚いていた。

 今永さんは1956年~65年に市立図書館長などを務め、「年表・福澤諭吉」など著書多数。今回発見された初版本と再版本は30日~10月2日に、同市留守居町の福澤記念館で公開される。

福沢諭吉
http://www.oita-press.co.jp/~/media/Images/oita-press/2016/07/27/J200902120415_BI_JPG_00.ashx
中津市で見つかった「学問のすゝめ」初版本
http://www.oita-press.co.jp/~/media/Images/oita-press/2016/07/27/J201607260569_BI_JPG_00.ashx


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1: 風吹けば名無し
福沢諭吉「脱亜論」 

日本の不幸は中国と朝鮮である。 
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。 
情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。 
国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。 
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。 
「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、大陸や半島との関係を絶ち、 欧米と共に進まなければならない。 
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。 
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。 
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。

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