幕末ちゃんねる

幕末史中心の2chまとめサイト

タグ:議論

1: 名無しさん 2017/07/05(水) 14:31:31.20 _USER9
no title
公共交通機関が未発達だった1893(明治26)年4月、松江市の県第一尋常中学校(現・松江北高)が、徒歩を中心にした全行程約500キロの修学旅行を実施していた。
鳥取県米子市の地域文化研究誌「伯耆文化研究」がこのほど発行した第18号で、こんな事例を紹介している。
山陰では修学旅行の草分けとみられるが、124年前の生徒たちは現在では想像できないほどの健脚ぶりだったようだ。【小松原弘人】

伯耆文化研究会の理事で郷土史家の岩佐武彦さん(78)が、米子市立図書館と島根県立図書館(松江市)で山陰新聞(現・山陰中央新報)の記事「三道旅行記」を発見した。
三道は山陰道、山陽道、南海道を指しており、同行した記者が執筆して同紙で随時掲載された。岩佐さんは記事と自身の解説、行程図をまとめた「全行程500キロ 徒歩・川舟・汽船による修学旅行」を寄稿した。

岩佐さんや三道旅行記によると、修学旅行は4月5日から同15日までで、島根、鳥取、岡山、香川、広島県を巡った。
参加者は3~5年の生徒と教師の計81人。行程の約4分の1は汽船、川舟、鉄道を利用したが、残りは徒歩での移動だった。
記事では記者が見た当時の交通事情や世相、それぞれの地域の様子を詳細に記録している。

初日には鳥取、岡山県境にある残雪の四十曲峠(770メートル)を踏破しており、記事は「足の疲れがひどく、寒さも甚だしく、耐え難い」と苦労ぶりを記述。
岡山では市街地や医学校、紡績工場を、香川では屋島の源平合戦古戦場や高松城、金刀比羅宮など見学した。
紡績工場では「電灯こうこうとして輝き」「発電機あり」「大機械あり」と驚きが書かれている。深夜や未明に出発することもあった。
汽船で松江に帰った夜は、下級生らが拍手と歓声で出迎えたという。

当時の服装は、1903(明治36)年に修学旅行をした第二中学校(現・米子東高)の創立90周年記念誌にある「木綿の筒袖、はかま、制帽、脚半、草履、布鞄」に似ていたとみられる。
岩佐さんによると修学旅行は1892(明治25)年ごろから広まりだし、「当時、記者が同行するほど注目されていたが、現代とは全く趣が異なったようだ。記事も当時の社会をよく伝えており、貴重だ」と話している。

修学旅行の行程図=「伯耆文化研究」第18号から


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170705-00000014-mai-soci


31: 名無しさん 2017/07/05(水) 14:43:35.33 
>>1 
>記事は「足の疲れがひどく、寒さも甚だしく、耐え難い」と苦労ぶりを記述。  

当時の人間でも疲労困憊じゃねえか 


335: 名無しさん 2017/07/05(水) 17:39:23.09 
>>31 
初日は雪山登山だからな 
よーやるわ 


338: 名無しさん 2017/07/05(水) 17:41:30.09 
>>335 
大山山麓だから相当急峻だよ。仮に四国の剣山だったら死人出るな。 

続きを読む

1: 幕末まとめ  2017/06/11(日) 13:23:03.75 ● BE:601381941-PLT(13121) ポイント特典
明治新政府の目安箱、投書発見「役人が女色にふける」

明治新政府が全国に先駆けて京都に設置した目安箱に、住民らが投書した訴状の原本34通が京都市内で
見つかった。幕末の動乱で荒廃した街の復興や、物価高騰を案じる民衆の声がつづられている。この時期の
訴状が見つかるのは極めて珍しいという。

34通の訴状は、慶応4・明治元(1868)年を示す「戊辰(ぼしん)歳」、目安箱への訴えを指す「箱訴(はこそ)」の
文字が書かれた冊子にとじられていた。投書には同年6月~12月の日付があった。「九冊之内」という記述があり、
9冊あったうちの1冊とみられる。明治新政府は徳川幕府にならい同年2月、全国初となる目安箱を京都の
三条大橋西詰めに設置。その後、東京や大阪にも広がった。

訴状の内容は、荒れた街の復興を求める声や、新政府の紙幣・太政官札(だじょうかんさつ)の発行に伴う
物価高騰への苦情、学校・住宅建設の要望、「京都府」という呼称が良くないので「平安府」にしてはどうかという
提案など多岐にわたる。「僧侶のぜいたくを制限せよ」という訴えや「新政府の役人たちが酒や女色にふけっている」
といった告発もあった。

古文書研究で知られる国際日本文化研究センターの磯田道史(みちふみ)・准教授(46)=日本史学=が
5月下旬、京都市内の古書店で見つけた。磯田准教授は「明治維新という革命直後の民衆の肉声が聞こえてくるようだ。
これまで明治維新は志士や政治家の分析が目立ち、住民の視点からの研究が欠けていた面があった。
維新史の空白を埋める貴重な史料だ」と話している。(大村治郎)

no title

役人の素行の悪さを告発する訴状=京都市中京区
no title

物価高騰による窮状を訴える投書=京都市中京区
no title

自ら見つけた目安箱の訴状を手にする磯田道史・国際日本文化研究センター准教授=京都市中京区

http://www.asahi.com/articles/ASK6952X7K69PLZB010.html


続きを読む

1: 幕末まとめ 2017/05/13(土)19:30:45
大中黒旗
no title

いまの日章旗と比べてどうや?
12: 幕末まとめ 2017/05/13(土)19:32:48 
よわそう 

11: 幕末まとめ 2017/05/13(土)19:32:42 
エストニアかな? 

10: 幕末まとめ 2017/05/13(土)19:32:40 
なんかドイツの諸公国にありそう 

3: 幕末まとめ 2017/05/13(土)19:31:18 
葬式会場みたい 

引用元: ・徳川幕府が考案した日本国旗ってどう思う?

続きを読む

1: 幕末まとめ 2017/04/11(火) 09:25:39.39 _USER
45

NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、
井伊直虎は、今川方から井伊家に入った井伊次郎だったと幕末に記した史料が新たに見つかり、
井伊美術館(京都市)が10日、発表した。
ドラマ上では、井伊直盛の娘「次郎法師」が直虎を名乗っているが、
同美術館は直虎・男説を補強する史料としている。


 昨年も、別史料から直虎は今川家重臣の息子・井伊次郎だったと発表していた。
同美術館によると、直虎の名前が書かれた文書は「次郎直虎」と書かれた
永禄11(1568)年の書状だけで、今回が2例目という。


 新史料は、井伊家の家臣に伝来した「河手家系譜」。
文政13(1830)年ごろにまとめられ、幕末に加筆された。
加筆部分で「井ノ直虎」は「次郎也」とあり、
「今川之物也」と説明。次郎法師は直盛の娘との記述もあった。


 永禄11年、徳川家康が井伊家の本拠地だった遠江(静岡県西部)に侵攻した際
「直虎は花沢(焼津市付近)に逃げる途中に討ち死にした」と最期の様子も記していた。


 大河ドラマの時代考証を務める小和田哲男静岡大名誉教授(戦国史)は
「幕末の二次史料ながら、河手家系譜の『この次郎は御家にあらず。今川のものなり』と、
『井ノ直虎』の横に朱字で『次郎也』とある部分は注目される。
史料紹介なり論文の形で公になった時点で検討したい」とコメントしている。

産経ニュース
http://www.sankei.com/life/news/170411/lif1704110008-n1.html
8: 幕末まとめ 2017/04/11(火) 09:34:59.83 
別にどっちでもいいけど 
一般論で言うなら300年後近い幕末の史料じゃ補強材料にならないのでは 

46: 幕末まとめ 2017/04/11(火) 15:53:11.17 
>>8 
それ言うなら直虎の存在なんて史料ほぼ皆無の妄想になってしまう 


続きを読む

1
1: 幕末まとめ 2017/03/19(日) 05:16:22.41
すぐにオワコンになるなんて

81: 幕末まとめ 2017/03/19(日) 06:15:41.33 
勝海舟は英蘭辞典使って英語の勉強したらしいから 
いきなり英語を始めるよりアドバンテージはあったやろ 


7: 幕末まとめ 2017/03/19(日) 05:26:48.85 
大村益次郎やんけ 


21: 幕末まとめ 2017/03/19(日) 05:33:48.60 
>>7 
なお英語もあっという間にマスターした模様 ソースは福沢論吉 


61: 幕末まとめ 2017/03/19(日) 05:57:24.23 
>>7 
本人がオワコンになるの早すぎ 

続きを読む

↑このページのトップヘ