幕末ちゃんねる

幕末史中心の2chまとめサイト

タグ:長州

1: 幕末まとめ  2018/02/07(水) 04:48:44.22 _USER9

1
今年は「明治維新150年」を記念する行事が各地で開かれますが、この響きに違和感を持つ人もいます。
東北地方など、1868年に起きた戊辰戦争で新政府軍と戦って敗れた藩があった地域に住む人たちです。
特に戊辰戦争の激戦地だった旧会津藩では今も遺恨が残っているといわれています。

 旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。市内には「維新」ではなく「戊辰150周年」ののぼりが立っています。
「維新より戊辰のウエートが大きい」。6代にわたり市内に住む小林輝雄さん(68)は街の雰囲気を語ります。
自身は戊辰戦争で敵対した旧長州藩の山口県にわだかまりはありません。
ただ政府軍に故郷が踏みにじられた話は祖母らから聞いています。小林さんは「当時を根に持つ人のことも理解できる」といいます。

 会津では少年兵「白虎隊」などを含め2500人以上の兵員が戦死したと伝えられています。
会津若松市の教育長を務めた宗像精さん(84)は「戦いに負けただけでなく、『賊軍』の汚名を長く着せられたのが問題だ」と今も憤慨しています。

 賊軍とは政府軍の「官軍」に対する呼び方です。日本思想史を研究する京都造形芸術大学の野口良平さん(50)は
「新政府軍が内戦に勝つため用いた『官軍と賊軍』という区分けが、
戊辰戦争後も教育などの場に用いられたのが遺恨の要因になった」と分析しています。

 遺恨は解きほぐせないのでしょうか。山口県萩市の内科医、
山本貞寿さん(78)は昨年11月に宗像さんを萩市に呼んで講演してもらいました。
「会津人の本音を聞くことから始めたい」という思いからです。
宗像さんは講演で「史実を考慮すると仲直りはできない」と訴えました。
「会津の悲惨な歴史をなかったことにするだけでなく、
(1600年の)関ケ原の戦いの雪辱を果たした長州人の思いにも背く」と考えたからです。

 それでも山本さんと宗像さんは「民間の交流を通じて仲良くすることはできる」という認識では一致しています。
実際、11年の東日本大震災後には萩市から会津若松市に義援金が届き、両市の高校が共同制作した歌を合唱したこともありました。

 1月22日、両市の関係者が驚く出来事がありました。山口県が地盤の安倍晋三首相が国会での施政方針演説で、
会津出身で東京帝国大学の総長になった山川健次郎に触れたのです。山川は白虎隊の出身ながら明治政府に登用され、
貧しい若者や女性の教育を後押ししました。

 「首相には『会津は賊軍でなかった』と明言してもらいたい」と宗像さんは期待します。
150周年の今年、雪解けは進むでしょうか。

続きはソースで

NIKKEI STYLE
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO26315670Q8A130C1EAC000

続きを読む

1: 幕末まとめ 2018/01/21(日) 15:36:01.00 _USER9
06
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180120-00050126-yom-ent

幕末の長州藩が1864年(元治元年)7月の禁門の変に敗れた後、奇兵隊の創設者・高杉晋作
(1839~67年)の切腹や斬首を検討していたことを示す文書が、山口県岩国市の市立博物館
「岩国徴古館(ちょうこかん)」が所蔵する長州藩岩国支藩の藩政史料から見つかった。

禁門の変後、第1次長州征討軍参謀の西郷隆盛は、長州藩に急進派藩士の処分を求めた。
当時、同藩では幕府に恭順する保守派が藩政を掌握。岩国領主・吉川経幹(きっかわつねまさ)は
幕府との調停役を務めていた。

晋作に関する文書は2点あり、一つ目は長州藩家老・志道安房(しじあわ)が64年11月9日、
征討軍の前線基地があった広島に向かう途中、岩国領に立ち寄った際の「手控(てびかえ)」。
藩の処分案が記され、晋作は「高杉和助」の名で「切腹之部」にあった。二つ目は、晋作ら
急進派7人の名が書かれた「斬首状写(うつし)」。「姦吏(かんり)と徒党を結び、上を欺き、
下を惑わし、君恩を忘れ、度々亡命すること不義不忠の至り」と晋作の罪状を挙げ、
「斬首被仰付(おおせつけられ)候事(そうろうこと)」としている。

引用元: ・【歴史】禁門の変のあと、高杉晋作の斬首を長州藩が検討。岩国で文書発見

続きを読む

1: 幕末まとめ 2017/10/30(月) 16:12:01.70 _USER9
坂本龍馬が剣術大会で桂小五郎に敗れたことを記す史料(群馬県立文書館所蔵)
no title


坂本龍馬と桂小五郎が対決――。幕末志士の両者が1857年(安政4年)3月1日、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で催された剣術大会で対戦し、2対3で龍馬が敗れたと記録する史料が、前橋市の群馬県立文書館に保管されていることが30日、分かった。歴史研究家、あさくらゆうさん(48)が存在を確認した。

 藩主、山内豊信(後の容堂)の上覧試合とされた大会を巡っては、これまでも複数の史料の存在が伝えられている。だが、開催された日が既に龍馬が江戸を去った後だったり、小五郎の名前が当時は使用していない「木戸準一」だったりするため、いずれも「偽書」というのが定説。山内家の日記などにも記録はなく、大会そのものが作り話とされている。

 文書館によると、今回の史料は前橋藩領だった上州・中箱田村(現群馬県渋川市北橘町箱田)で名主を務め、医院も営んだ「根井家」に伝わり、1994年に寄託された。

 折り畳んだ縦約16センチ、横約1メートルの和紙で、冒頭に「安政四三月朔日 松平土佐守様上屋敷ニ而御覧」と記載。龍馬らに加え、著名な剣客だった斎藤弥九郎(2代目)や石山孫六、海保帆平ら計43人が、一対一で戦った22試合の結果を毛筆で縦書きに記している。

 あさくらさんによると、この時期の龍馬は江戸遊学中で、土佐藩上屋敷近くにあった北辰一刀流の千葉道場(玄武館)で修行。小五郎も、盛んに対外試合をした神道無念流の斎藤道場(練兵館)で腕を磨いた。

 史料は各剣士の出身や流派も正確に記し、一部は別の史料に残る後日の足取りとも矛盾がない。大会には上州出身者も出場したため、試合結果の書き付けが根井家に残された可能性があるとみている。

 龍馬は今年で没後150年。あさくらさんは「この史料だけで断定はできないが、実際に大会があったのか、もう一度議論するきっかけになる。近年は龍馬の剣術が特に優れていたとする傾向もあるが、小五郎には負けたとある。イメージではなく、本当の姿はどうだったのか考えていくことが大切だ」と話す。〔共同〕

配信2017/10/30 12:30
日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22865490Q7A031C1CR0000/

222: 幕末まとめ 2017/10/30(月) 17:58:35.40 
最近、新資料の発見多くない?

35: 幕末まとめ 2017/10/30(月) 16:30:09.89 
出海「坂本さん、あんたわざと負けたろ?」 
龍馬「ニィッ」 


38: 幕末まとめ 2017/10/30(月) 16:31:47.47 
「逃げの小五郎」で有名で、めったに剣は交えなかったんじゃなかったっけ? 


41: 幕末まとめ 2017/10/30(月) 16:33:22.24 
>>38 
実戦はやらなくても道場の大会には出るだろう。 


44: 幕末まとめ 2017/10/30(月) 16:34:59.84 
>>38 
剣術の達人だからこそ、勝ち目が見えなければ躊躇なく逃げを選択できるとかなんとか 


86: 幕末まとめ 2017/10/30(月) 16:50:57.73 
>>38 
逃げ切れるのはそれなりに強いからじゃね 
つか武士なんだから必須科目だろ 下手じゃ出世もできないのでは 


90: 幕末まとめ 2017/10/30(月) 16:52:59.70 
>>86 
そう。 
池田屋襲った新撰組の戦法が、数人で相手を取り囲んでのフルボッコ戦法だから、 
どんなに剣術が強くても、新撰組が来たら同じ人数でない限り、逃げないと倒されるわw 

続きを読む

1: 幕末まとめ 2017/09/14(木) 00:03:57.34 _USER9
 幕末の寺田屋事件で坂本龍馬が幕府側に襲撃された際、現場に残したとされる書面に薩摩、長州の両藩が協力して幕府側を京都から追い払う取り決めがあったと記した文書が鳥取県立博物館で見つかったことが13日、分かった。下関市立歴史博物館(山口県)の田中洋一学芸員が特別展に向けた調査で発見した。

 慶応2(1866)年の寺田屋事件で薩摩藩邸に逃げ込んで難を逃れた龍馬の荷物の中に残されていたとされる書面に関する文書。識者からは、薩長同盟は軍事同盟だったのかどうかや、龍馬の関与の度合いなどが議論になっているとして「新たな見方を提供する文書だ」と評価する声が出ている。

薩長同盟に関する記述が見つかった「京坂書通写」=13日(鳥取県立博物館所蔵)
no title


https://this.kiji.is/280678722576188922?c=39546741839462401


続きを読む

↑このページのトップヘ