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タグ:高杉晋作

1: 幕末まとめ 2018/01/21(日) 15:36:01.00 _USER9
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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180120-00050126-yom-ent

幕末の長州藩が1864年(元治元年)7月の禁門の変に敗れた後、奇兵隊の創設者・高杉晋作
(1839~67年)の切腹や斬首を検討していたことを示す文書が、山口県岩国市の市立博物館
「岩国徴古館(ちょうこかん)」が所蔵する長州藩岩国支藩の藩政史料から見つかった。

禁門の変後、第1次長州征討軍参謀の西郷隆盛は、長州藩に急進派藩士の処分を求めた。
当時、同藩では幕府に恭順する保守派が藩政を掌握。岩国領主・吉川経幹(きっかわつねまさ)は
幕府との調停役を務めていた。

晋作に関する文書は2点あり、一つ目は長州藩家老・志道安房(しじあわ)が64年11月9日、
征討軍の前線基地があった広島に向かう途中、岩国領に立ち寄った際の「手控(てびかえ)」。
藩の処分案が記され、晋作は「高杉和助」の名で「切腹之部」にあった。二つ目は、晋作ら
急進派7人の名が書かれた「斬首状写(うつし)」。「姦吏(かんり)と徒党を結び、上を欺き、
下を惑わし、君恩を忘れ、度々亡命すること不義不忠の至り」と晋作の罪状を挙げ、
「斬首被仰付(おおせつけられ)候事(そうろうこと)」としている。

引用元: ・【歴史】禁門の変のあと、高杉晋作の斬首を長州藩が検討。岩国で文書発見

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1: 幕末まとめ 2016/10/28(金) 14:01:20.48
長州藩なんて呼び方当時は存在してないし毛利の部下だったガチエリート高杉が萩藩士を自称しないのはありえへんぞ
3: 幕末まとめ 2016/10/28(金) 14:02:25.45 
そんな難しいこと言うなや 

7: 幕末まとめ 2016/10/28(金) 14:03:15.35 
>>3 
これは重箱じゃない。ドラマレベルの歴史考証的にも絶対あかんレベル 

4: 幕末まとめ 2016/10/28(金) 14:02:36.15 
現代人が聞いても意味わからんような方言でしゃべらないのはおかしい


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1: 幕末まとめ  投稿日:2016/04/14(木) 21:00:53.62
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 幕末の志士、高杉晋作の150回忌となる14日、墓がある山口県下関市の寺で墓前祭が行われ、晋作が遺書の中で希望していたとおり、太夫による舞が奉納されました。

 高杉晋作は、幕末の長州藩で奇兵隊を結成し、討幕運動の中心として活躍しましたが、明治維新を目前に27歳の若さで亡くなりました。
150回忌となる14日、晋作の墓がある下関市の寺、東行庵で墓前祭が行われ、奇兵隊の隊員の子孫やファンなどおよそ500人が焼香をして手を合わせました。
続いて、晋作が遺書の中で「自分の死後は墓前に芸者を集め三味線などを鳴らして供養してほしい」と希望していたことを受け、
京都から招かれた太夫がしめやかな舞を奉納しました。

 また、遺書にあった晋作の望みをかなえ「奇兵隊開闢総督」と刻まれた墓碑銘も披露されました。
高杉晋作についての著書もある直木賞作家の古川薫さんは「晋作が願った2つのことが150年ぶりにかなったうれしい日です」と話していました。

http://mainichi.jp/articles/20160415/ddl/k35/040/546000c


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1: 幕末まとめ  投稿日:2010/01/27(水) 14:46:20.61 ID:SbEkg1Pq
坂本龍馬や明治維新に再びスポットが当たっているが、
今年生誕180周年、維新思想の先駆者として知られる吉田松陰の存在も忘れてはならない。
『獄(ひとや)に咲く花』(4月より全国公開。山口、福岡県のみ2月6日より先行公開)は、
30歳で没した吉田松陰の短い生涯をひとりの女囚の目を通して描いた作品だ。
1830年に長州藩士の家に生まれた松陰は、1853年にペリーが浦賀に来航すると、
龍馬と同じく西洋の先進文明に心を打たれる。翌年、再び来航したペリー艦隊に密航を企てるも、
計画は失敗し、故郷で幽閉の身に処される。そこで、私塾「松下村塾」を開き、木戸孝允、高杉晋作、
久坂玄瑞、伊藤博文らを育てていた松陰だが、1858年に幕府が日米修好通商条約を締結したことを知るや、
討幕を表明。老中首座の暗殺を計画し、野山獄に送られて処刑されてしまう。
いわゆる志なかばで散った不遇の幕末武士で、その先駆的な思想から、松陰は明治維新の精神的指導者、
理論者として多くの人々に影響を与えた。明治維新のスターである坂本龍馬に比べれば随分と地味な印象だが、
龍馬の活躍も松陰が作った下地があってのものだったのだ。
劇中ではそんな松陰が野山獄に収監されていた執念の日々が描かれる。表舞台で輝いた龍馬もいいが、
吉田松陰の“陰”での輝きにも注目だ。

http://www.trend-news.jp/feed_list/walkerplus/entry-437639.html

17: 幕末まとめ  投稿日:2010/01/27(水) 15:02:55.97 ID:0x1wADWf
むかしの人は時間の流れが違うんだと思う。乃木希典なんて40そこそこであのジジイ顔なんだぜ。老けすぎ。

20: 幕末まとめ  投稿日:2010/01/27(水) 15:04:43.28 ID:bFsq7hd3
>>17お前全国のおっさんがあだ名の10代に喧嘩売ってんの?(´・ω・`)

18: 幕末まとめ  投稿日:2010/01/27(水) 15:04:01.54 ID:XSfsdjle
19歳でホワイトベースの艦長やってたブライトさんのほうがすごいだろ

19: 幕末まとめ  投稿日:2010/01/27(水) 15:04:23.61 ID:MxrDkj+A
吉田松陰死んじゃいや 
最後までやりとげてほしかった


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1: アーマードプレコ(関西地方) 投稿日:2010/04/27(火) 20:32:34.71
高杉晋作の遺品返還訴訟:東行庵と萩市・高杉家、全面的争う姿勢 /山口 

 幕末の志士、高杉晋作の墓がある下関市吉田の曹洞宗東行庵(松野實應代表役員)が、萩市と晋作のひ孫の高杉勝さん(77)に晋作の遺品69点の返還などを求めた訴訟の第1回口頭弁論が26日、 

 地裁下関支部(曳野久男裁判長)であり、萩市側と高杉家は全面的に争う姿勢を示した。第2回口頭弁論は6月21日。 

 訴状によると、東行庵は産着や書簡など晋作の遺品約240点を東行記念館で保管していたが、高杉家側が03年2月に遺品の大半を引き揚げ、萩博物館に寄託した。 

 その後、下関市と東行庵は全遺品を戻すよう求めた。08年、萩市と高杉家は返還に応じたが、東行庵は「69点が返還されていない」としている。 

 冒頭陳述で原告側の弁護士は「遺品は寺に寄贈された公共財であり、1カ所での管理がふさわしい」と主張。これに対し、被告側の弁護士は「今後、当方の主張をまとめて述べていきたい」とした。 

  ◇  ◇ 

 閉廷後、原告側の弁護士が記者会見。「遺品の修繕をしてきたなど東行庵が遺品を所有している『間接事実』がある」と話した。 

 一方、被告側の弁護士は取材に「遺品が寄贈されたという記録はなく、高杉家のもの」と反論。勝さんは電話取材に「晋作には下関と萩での歴史があり、遺品は両市で管理してほしい」とコメントした。【尾垣和幸】 

http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20100427ddlk35040477000c.html

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